23 たしかに、ケルソスが我々をなぞらえているこれらの者たちは、.「あちこちの広場で数々の破廉恥極まりないものを示したり、(多くの聴衆を)集め、思慮深い人たちの集まりに決して近寄ることなく、彼らの中で自分たちの数々の見事な事柄を敢えて示そうともしない。ところが彼らは、青年たちや奴隷どもの一群や、無思慮な人々の集まりを見ると、駆けつけて気取ると彼は言う。彼は、こう述べることによって、我々を、互いに悪口を言う意図を持って三叉路に集まる女たちになぞらえ、我々を侮辱することしかしない。しかし我々は、我々の集まりが、思慮深い人たちの集まりとなるように尽力し、万事を行っている。また、我々は、共同体に向けた諸々の対話の中で――理解力のある聴衆が大勢いる場合には――我々の内にある取り分け見事な事柄や神的な事柄を(彼らの)只中に敢えてもたらすであろう。これに対し、集まってきた人たちがより単純で、比喩的に「乳[1]」と呼ばれている諸々の教えを必要としているのを我々が見て取った場合、我々は、数々の深遠な事柄を隠し、それらを口にしない[2]

 実際、我々のパウロがコリントの人たち――諸々の慣わしの点でいまだに清められていないギリシア人たち――に宛てた手紙の中に、次のように書かれている。「私は、あなた方に乳を飲ませましたが、食べ物を与えませんでした。なぜならあなた方は、食べることができなかったからです。しかし、あなた方は、今でもできません。なぜならあなた方は、まだ肉的だからです。実際、あなた方の内に妬みと争いがあるうちは、あなた方は肉的であり、人間に従って歩いているのではないでしょうか[3]」。同じ彼(パウロ)は、幾つかの事柄はより完全な魂の食べ物であり、(キリスト教の)手ほどきを受けている人たちの(学ぶ)諸々の事柄は、幼子たちの乳に比せられることを心得ており、次のように述べている。「実に、あなた方は、固い食物ではなく、乳を必要とする者たちになってしまいました。乳を飲む人は皆、正義の言葉を知りません。なぜなら彼は、幼子だからです。固い食べ物は、完全な人たちのものです。なぜなら彼らは、習慣によって、善悪を識別するたに鍛えられた感覚器官を持っているからです[4]」。これらの言葉を見事に語られた言葉として信じる人々は、はたして次のことを思い描くだろうか。すなわち、教えの内の諸々の見事な事柄は、思慮深い人たちの集まりに向けて決して語られてはならない。青年たちや奴隷どもの一群や、無思慮な人々の集まりを見つけた場合には、諸々の神的で荘厳な事柄を(彼らの)只中にもたらし、そのような人たちの許で、それらの事柄に関して気取った態度を取る、と。しかし、我々の書物の意図全体を吟味する人には、ケルソスが、門外漢の民衆と同じように、キリスト者たちの集団に憎しみを覚え、それらの事柄を無批判に、偽って語っているのは明らかである[5]



[1] 1Co.3,2.

[2] ここまでは、『ケルソスへの反論』第3巻第52節からの抜粋であるが、その冒頭部分が省略されている。以下に、それを訳す:

次にあなたは、ケルソスによって言われた言葉、すなわち、「我々は、あちこちの広場で数々の破廉恥極まりないものを示したり、(多くの聴衆を)集めたりする者たちを見る」という言葉が、紛れもなく偽った仕方で言われ、不当に引証されているのではないかをお考えください。

[3] 1Co.3.2-3.

[4] He.

[5] この段落は、『ケルソスへの反論』第3巻第53節全体の抜粋である。