24 我々は、たとえケルソスが望んでいなくとも、神のみ言葉によってすべての人々を教育したいと望んでいることを認める。それは、青年たちには彼らに相応しい励ましを与え、奴隷たちには、どのようにすれば神の言葉により、自由な思慮を受け取って高貴な者になるかを示すためである。我々の許にいるキリスト教の宣教者たちは、「ギリシア人たちのためにも夷狄の人たちのためにも、知恵者たちのためにも理解力のない人たちのためにも[1]」尽くす義務があると言い切っている。宣教者たちは、理解力のない人たちの諸々の魂をも癒さなければならないと言って憚らない。それは彼らが、まさに次のように言うソロモンの言葉に耳を傾け、無知を捨てて、より聡明な状態に向かって精励するようになるためである。ソロモンは、次のように言っている。「無思慮なものたちは、心をしっかり持て[2]」。「あなた方の内でもっとも無思慮は者は、私の許に向かうべきである。諸々の思慮に欠ける者たちに、知恵である私は語りかけ、激励する[3]」。「あなた方は来て、私のパンを食べ、私があなた方のために調合したぶどう酒を飲みなさい。あなた方は、生きるために、無思慮を捨てなさい。あなた方の理解力を知識の中で正しなさい[4]」。これらの引用箇所に基づいて、さらに私は、ケルソスの言葉に対して次のように言いたい。哲学の営みをしている人たちは、果たして青年たちを聴講へと招いていないのか。さらに若者たちを、極悪な生活から諸々のより優れた事柄へと招いていないのか。また彼らは、奴隷たちが哲学の営みをすることをどうして望んでいないのか。それとも我々も、奴隷たちを徳へと励ましたとして、哲学者たちを非難しなければならないのか――ピュタゴラスがザモルクシスを、ゼノンがペルサイオスを、そして昨日もその前も、哲学者たちがエピクテトスを哲学の営みへと促したとして。それとも、ギリシア人たちよ、あなた方には、青年たちや奴隷たち、無理解な人たちを哲学へと招くことが許されるのに対し、それを行う我々は、人類愛に駆られてそれを行っているわけではないということなのか[5]。我々は、み言葉に由来す医術によってすべての理性的本性を癒し、万物を創造した神の家族の一員にしたいと望んでいる[6]



[1] Rm.1,14.

[2] Pr.8,5.

[3] Pr. 9,16

[4] Pr. 9,5-6.

[5] 「人類愛に駆られて」という句の原語は次の通り:filanqrw,pwj. 本書第21節末尾の「それなりの人類愛に駆られて(kata. to. faino,menon auvtoi/j fila,nqrwpon)と対を成しているように訳者には思われる。

[6] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第54節からの抜粋であるが、その最後の一文が抜けている。それを訳出すると:

ケルソスからの諸々の非難というよりも中傷に対しては、以上で十分である。