25 「思慮深い人は誰一人として、(キリスト教の)教えを信じない。思慮深い人は、その教えに近づく多くの人々と一線を画している」と。彼は、そのように言うことによって、諸々の法律に導かれた多くの門外漢の人.たちゆえに、思慮深い人は、たとえばソロンやリュクルゴス、ザレウコスやその他の人を信じないと主張するのと同然のことをしている――特に彼が、徳にかなった人を思慮深い人と見なしている場合には。実際、立法者たちは、彼ら(多くの門外漢の人たち)のために、彼らが有益だとする考えに従って、門外漢の人たちをそのような指導と諸々の法律で囲むことをしたように、あらゆる所にいる人々のためにイエスにおいて法律を制定する神は、思慮深くない人をも、彼らがより善い方向へと導かれ得る限りで、導くのである。以前の巻ですでに我々が述べたように[1]、このことを弁えている神は、モーセにおいて次のように言っています。「彼らは、神ならぬものによって私に妬みを起こさせた。彼らは、彼らの諸々の偶像において私を怒らせた。私も、民ならぬものによって彼らに妬みを起こさせ、愚かな民によって彼らを怒らせる[2]」と。パウロも、そのことを知っており、次のように言っている。「神は、知恵者たちを恥じ入らせるために、この世の諸々の愚かさを選び出しました[3]」と。私は、諸々の学識において進歩したように見えるが、無神論的な多神論に陥ったすべての人たちを、より広い意味で「知恵者たち」と言っている。なぜなら彼らは、「知恵者であると主張しながら愚かになり、不滅の神の栄光を、朽ちるべき人間や鳥たち、四足獣たち、這うものたちの似姿に等しいものにしてしまった[4]」からである。



[1] Cf.C.Cels.,II, 78.

[2] Dt.32,21.

[3] 1Co.1,27.

[4] Rm.1,22-23. 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第73節からの抜粋であるが、直前の一文が省かれている。それを訳出すると、次のようになる:

次に(ケルソス)は、キリスト教の宣教者(o` presbeu,wn cristianismo,n)を中傷し、彼を数々の馬鹿げた事柄を並べ立てる者としている。しかし彼は、その際、数々の馬鹿げた事柄であると言っているものを指摘もしなければ、明らかにもしない。さらに彼は、中傷し、次のように言う。