26 (ケルソスは、キリスト教の)教師を、愚か者たちを捜し求めているとして非難する。我々は彼に対し、次のように言いたい:あなたは、誰を、愚か者たちと言っているのか。厳密には、下劣な人は皆、愚か者である[1]。したがって、もしもあなたが、下劣な人たちを愚か者たちと言うなら、人々を哲学へと導くあなたは、下劣な人たち、あるいは、都会風の人たちを導こうとしているのではないか。しかし、都会風の人たちを導くことはできない。なぜなら彼らは、哲学的な営みをすでに開始しているからである。してみると(あなたが導こうとしているのは)下劣な人たちである。下劣であれば、彼らは愚か者たちである。実にあなたは、そのような多くの(下劣な)人たちを哲学へと導こうとしている。したがってあなたも、愚か者たちを捜し求めているのである。これに対し私は、このように愚か者と言われる人たちを捜し求めるとしても、人類愛に満ちた医者[2]が病気の人たちを捜し求め、彼らに数々の助けを与え、彼らを強めるのと同じように振舞う。もしもあなたが、適性がなく誰よりも突飛な人たちを愚か者と言うのなら、私はあなたに、こう答えたい。私は、彼らをも、可能な限り改善しようと努める――ただし、彼らと、キリスト者の集まりを組織するつもりはないけれども、と。私はむしろ、いっそう適性があり、より鋭敏な人たちを捜し求める。なぜなら彼らは、諸々の謎の解明や、律法と諸々の預言書と諸々の福音書の中で暗示された数々の事柄の解明について来ることができるからである。あなたは、それらにおける意味を吟味せず、(それらを)書いた人たちの意図を探ろうともせずに[3]、それらを、言及に値する事柄を何一つ含んでいないとして軽蔑しているけれども[4]



[1] これは、ストア派の見解だろう。以下省略

[2] 省略

[3] 「聖書の諸書における意味」(精神)と、「聖書記者たちの意図」が、オリゲネスの思想の中で具体的に何を示すかの説明は、稿を改めて行いたい。

[4] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第74節全体の抜粋である。