したがって、以上の議論が教えているように、ギリシア人たちの間においてであれ、夷狄の人たちの間においてであれ、諸々の学派を立ち上げた人たちの誰か一人を信じなければならないとすれば、いわんや、すべてのものの上に位する神、ただその神だけを畏れ、その他の諸々のもの――存在しないものであれ、存在し尊重に値するものであっても崇拝や畏れにまったく値しないもの――を見過ごすように教える方をどうして信じてはならないのだろうか[1]。それらのことに関しては、たんに信仰するだけでなく、理性によってそれらの事柄を考察する人は、徹底的に探求することによって遭遇し発見した数々の証明を挙げるだろう。すべての人事が信仰に依存しているとすれば、それらの人事にもまして神を信じることがどうして一層理にかなっていないのだろうか。実際、いったい誰が、禍が起こるかも知れず、また時に起こるにもかかわらず、諸々のより好いことが起こるのを信じないで、船旅をしたり、結婚したり、子どもをもうけたり、地に種を蒔いたりするだろうか[2]。たしかに、諸々のより好いことや望みにかなうことが起こるという信仰が、まさに先行き不明で予期せぬ結果をもたらすかもしれない諸々の事柄に対して、すべての人を大胆にさせるのである。どのような結末を迎えようとも、先行き不明のすべての行いにおいて、希望と、将来の諸々のより好ましい事柄に関する信仰とが人生を支えているとすれば[3]、いわんや、漕ぎ渡る海や種蒔かれる地、娶られる婦人あるいは人々の間に見られるその他の諸々の人事にもまして、それらのすべてをお造りになった神を信じる人によって――さらに、卓越した寛大さと偉大な神的配慮の下に、人々のためにみずから耐え忍ばれた諸々の大きな危険と恥と見なされた死とをもって、敢えてこの教えを、地上の至る所に住む人々にお示しになった方を信じる人によって――、そのような(希望と)信仰が受け入れられるのがどうして理にかなっていないのだろうか。そして、(人々のために諸々の危険と死を耐え忍ばれた)その方は、初めにご自分の教えに従うことに決めた人々にも、すべての危険や常に待ち受けている諸々の死にもかかわらず、人々の救いのために、地上の至る所に敢えて赴くように教えたのである[4]



[1] オリゲネスは、信仰を否定する理性主義者でもなく、理性を否定する信仰至上主義者でもない。彼にとってロゴス・キリストに従うことは、理性(ロゴス)の要求に従うことである。しかし理性は、根本的に何らかの信仰に基づいており、その根本的な信仰を前提にして初めて人間の思惟と行動を「正しく」導くことができるのである。

[2] 省略

[3] 省略

[4] 以上は、『ケルソスへの反論』第1巻11節全体の抜粋である。