しかしながら、キリスト者たちの信仰を非難するケルソスは、多くの大火と多くの大洪水が起こったこと、また、デウカリオンの治世に起こった大洪水とファエトンの治世に起こった大火が最近のものであることを、一体どのような論証によって受け入れねばならなかったのかを述べるべきである。しかしもしも彼が、それらの事柄に関してプラトンの諸々の対話編を引き合いに出すのであれば[1]、我々は彼に対して次のように言いたい。一切の被造物を乗り越えて万物の造り主に寄りすがったモーセの清浄で敬虔な魂の内に神的な霊――その霊は、プラトンよりも、またギリシア人たちの許にいる賢者たちや夷狄の許にいる賢者たちよりも、神に関する諸々の事柄をはるかに判然と証明する――が親しく宿っていると信じることが我々にも許されると。もしも彼が、そのような信仰の諸々の理拠を我々に求めるのであれば、彼が先ず、証明もなしに提示した諸々の事柄に関して、その諸々の理拠を挙げるべきである。我々もそれを受けて、我々の(主張する)諸々の事柄が事実そのとおりであることを証明しよう[2]



[1] Plato, Timaeus, 20Ds.

[2] 本節は、『ケルソスへの反論』第1巻19節の後半からの抜粋である。前半を訳出すると次のようになる:

以上の事柄に続いて、世界の齢は一万年に満たず、それよりはるかに少ないことを示すモーセによる世界創造(神話)をそれとなく非難しようとするケルソスは、自分の意図を隠蔽して、世界は造られざるものであると主張する人々に賛成している。実際、「永遠の昔から多くの大火と多くの洪水が起こったこと、そして比較的新しい洪水は、つい最近のデウカリオンの治世に起こった大洪水である」という(彼の)言葉は、彼の言うことを理解できる人々に、彼による世界の非被造性を明瞭に示している。