ケルソスには、諸々の大火や諸々の氾濫に関する神話の教師がいるとしよう[1]。彼らは、ケルソスによれば、きわめて賢いエジプト人たちである。彼らの知恵のしるしは、(彼らによって)礼拝されている非理性的な諸々の動物であり、彼らの諸々の言葉は、神格へのそのような崇拝が理にかなったことであるとともに、何らかの事柄を秘めた神秘であることを証明しているとされる。そして、エジプト人たちが諸々の動物に関して自分たちを誇示し、神学の理拠[2]を提出しようもなら、彼らは賢者となる。これに対して、ユダヤ人たちの法と立法者とに賛同する人が、すべてを万物の創造主なる唯一の神に帰すと、その人は、ケルソスや彼に類する人たちの許では、神話上の輪廻転生[3]を支持するために諸々の理性的で死すべき動物にばかりでなく、諸々の非理性的な動物にまで神性(の品位)を落とす人よりも劣っていると見なされるのである。ところで、この神話上の輪廻転生は、天の穹窿から落下して、諸々の非理性的な動物にまで――家畜にばかりでなく、きわめて獰猛な動物にまで――降りていく魂に関わっている。さらに、エジプト人たちが神話を語ろうものなら、彼らは、諸々の謎と秘義を通して哲学的に思索したと(ケルソスや彼に類する人たちによって)信じられる。これに対して、モーセが民全体のために数々の物語を著して、諸々の法を彼らのために遺しても、彼の諸々の言葉は諸々の空虚な神話であり、比喩的解釈さえ受け付けないと見なされるのである。このようなことが実に、ケルソスとエピクロス派の人たちによって考えられている[4]



[1] プラトンの作品では(Timaeus, 22)、宇宙的大火の神話は、エジプトの祭司の口を通して語られている。

[2] o` lo,goj qeologi,aj)

[3] h` muqikh. metenswma,twsij.

[4] 本節は、『ケルソスへの反論』第1巻20節の後半からの抜粋である。前半を訳出すると次のようになる:

しかしながらケルソスは、「ギリシア人たちも、これらの事柄が太古のものであると見なしている。なぜなら彼らは、諸々の大洪水や大火のせいで、それらよりも古い諸々の事柄を考えたこともなければ、記憶にも留めていないからである[4]」と言うことによって、図らずも、世界が比較的新しいもので、まだその齢は一万年にも満たないと証言する破目に陥っている。