次にケルソスは、こう言っている。彼の言葉を引用すると、「もしも彼らが、私に答えようとせず――むろん私は、確かめない。なぜなら私はすべてを知っているからである。むしろ、私は、すべての事柄に等しく関心を寄せている――、それでよろしかろう。しかし、もしも彼らが答えようとせず、いつものように「吟味しないでください」云々と言うなら、彼らが語っている諸々の事柄が一体そのようなものなのか、また、それらの事柄が何に由来するのかを、彼らに教える必要がある」云々と。しかし、「私はすべてを知っている」という、彼によって大胆不敵にも述べられた妄言の極みに対して、次のように言わなければならない。すなわち、もしも彼が、諸々の預言――これらの預言は、明らかに認められる諸々の謎や、多くの人々にとって不明瞭な言葉の数々に満ちている――を読んだなら、また、もしも彼が、福音書の諸々のたとえ話や、その他の、律法やユダヤ人の歴史に関する書、さらに使徒たちの諸々の話しに出会っていたら、そして、もしも彼が慎重に読んで、諸々の発言の意味[1]に立ち入ろうと望んでいたら、おそらく彼はこれほど大胆になったり、「なぜなら私はすべてを知っているからである」とは言わなかっただろう。同様に、それらの書に時間を割く我々も、「私はすべてを知っている」とは言わないだろう。なぜなら我々は、真理を愛しているからである[2]。我々の内の誰一人として、エピクロスに関する事柄をすべて知っているとは言わないだろう。また、不遜にも、プラトンに関する事柄をすべて知っていると思わないだろう。なぜならそれらの事柄を解説する人々の間にさえ、甚だしい相違があるからである。そもそも一体誰が向こう見ずになって、ストア派に関する事柄をすべて知っているとか、ペリパトス派に関する事柄をすべて知っていると言うだろうか。ただし、自分たち自身の無知に気づかない鈍感な素人たちから「私はすべて知っている」という言葉を聞いて、彼らに教えを請い、すべてを認識したと思い込むのであれば、話は別である。私には、(ケスソスが)何かそれに似たようなことを行ったように思われる。あたかも誰かがエジプトに滞在して――その地では、エジプトの賢者たちが父祖伝来の諸々の文書に従って、自分たち間で神的なものと見なされている諸々の事柄に関して多くの哲学的な思索を重ねている。他方、その地の素人たちは、幾つかの神話を聞き知ってはいるが、それらの神話に含まれる諸々の教えを知らないくせに、それらの神話のゆえに尊大になっている――、その地の素人たちに師事し、エジプト人たちに関するすべての事柄を認識したと思い込むようなものである。その際、彼は、神官たちの誰とも交際せず、神官たちの誰からもエジプト人たちの言外の諸々の秘密を学んでいない。エジプトの賢者たちと素人たちとに関して私が述べたことは、ペルシア人たちについても見ることができる。彼らの許には、諸々の秘儀があって、それらは、彼らの内で学識ある人たちによって理性的に取り扱われている。しかし、それらの同じ秘儀が、彼らの内でより皮相的な多くの人々の許では象徴的に行われているのである。同じことは、シリア人たちやインド人たち、さらには、諸々の神話と諸々の文書を持つすべての人たちに関しても、言われなければならない[3]



[1] o` tw/n le,xewn nou/j) 直訳すれば、「諸々の発言の精神」である。それを、オリゲネスの思想に即して解釈すれば、聖書の言葉に潜む人類救済の意思、すなわち人類への神の愛である。

[2] fi,lh fa.r h` avlh,qeia : 直訳すれば、「なぜなら真理は、親愛なものだからである」となる。同じ言葉が次の個所にも見出される:『ケルソスへの反論』第3巻16節、ならびに、『アフリカヌスへの手紙』第6節(拙訳あり)

[3] 以上は、『ケルソスへの反論』第1巻12全体の抜粋である。