またケルソスは、多くのキリスト者によって言われている言葉として、「この人生における知恵は悪であり、愚かさは善である」という言葉を引用しているので[1]、次のように言われなければならない。すなわち、ケルソスは、パウロ(の書簡)にある言い回しそれ自体を引用せずに、この言葉を中傷していると。(パウロの書簡には)このように書かれている。「もしも誰かがあなた方の内で賢い者と思われたいなら、賢い者となるために、この代で愚か者となりなさい。なぜならこの世の知恵は、神の許では愚かだからである[2]」と。してみると、使徒は単純に、「知恵は、神の許で愚かである」と言ったのではない。むしろ彼は、「この世の知恵は・・・」と言ったのである。また使徒は、「もしも誰かがあなた方の内で賢い者と思われたいなら」、まったく単純に「愚か者となりなさい」と言ったのではない。むしろ彼は、「賢い者となるために、この代で愚か者となりなさい」と言ったのである。したがって我々は、聖書によると無効になった、偽りを教える一切の哲学が、「この世の知恵[3]」であると主張する。また我々は、愚かさが無条件に善であるとは言わない。むしろ我々は、人がこの代に対して愚か者となったとき、愚かさは善であると主張する。それは、あたかも我々が、魂の不死とその輪廻転生に関して言われる諸々の事柄とを信じるプラトン主義者が――それらの事柄の承認を中傷するストア派の人々にとって、あるいは、プラトンの数々の鼻歌に悪評を立てるペリパトス派の人々にとって[4]、あるいは、摂理を導入し、すべてのものの上に神を立てる人々を迷信家として非難するエピクロス派の人々にとって――、愚かさを得たと言うようなものである。さらに、み言葉の望みに従えば、理性と知恵によって諸々の教えに同意する方が、単純な信仰によって同意するよりも、はるかに優っていること、しかし場合によっては、人々を完全に見捨てられたままにしないように、み言葉は、この単純な信仰による同意を望んだことを、イエスの正真正銘の弟子であるパウロが明らかにしている。彼は、次のように言う。「事実この世は、神の知恵の内にあるのに、知恵を通して神を認識しませんでした。そこで神は、信じる人々を、宣教の愚かさを通して救うことを望まれました[5]」。したがって神は、神の知恵の内に認識されるべきであったことが、これらの言葉によって明瞭に示されている。しかし、そのことはその通りに実現しなかったので、次に神は、信じる人々を、無条件の愚かさを通してではなく、宣教に関わる限りでの愚かさを通して救うことを望まれたのである。それゆえ、十字架に付けられたイエス・キリストを宣べ伝えることは、宣教の愚かさである。パウロもこのことを自覚して、次のように言っている。「しかし私たちは、十字架に付けられたイエス・キリストを宣べ伝えます。キリストは、ユダヤ人にとっては躓き、異邦人にとっては愚かさですが、ユダヤ人であれ異邦人であれ、召された人々自身にとっては、神の力、神の知恵なのです[6]」と。



[1] Cf.C.Cels.I,9.

[2] 1Co.3,18-19.

[3] 1Co.2,6.

[4] Aristote, Anal.Post.,I,22 (83 a 33).

[5] 1Co.1.21.

[6] 1Co.1,23-24. なお本節は、『ケルソスへの反論』第1巻13節全体の抜粋である。