同書(ケルソスへの反論)1巻の終わりで、いかなる賢者も教養者もイエスの弟子にはならなかったことに関して、以下の通り。

 以上の事柄に対して、私は次のように言いたい。すなわち、イエスの使徒たちに関する諸々の事柄を賢明かつ慎重に吟味できる人たちにとっては、彼らが神的な力によってキリスト教を教授し、人々を神の言葉に導くのに成功したのは明らかである。実際、聞き手の人たちを導くために、ギリシア人たちの問答法や弁論術に即して巧みに語る能力は、彼らの内にはなかった。大勢の人たちを満足させる仕方で思考し語ることのできる幾人かの賢者たちを、もしもイエスが多くの人たちの意見に合わせて選び出し、彼らをご自分の教えの奉仕者として利用していたら、イエスは、何らかの学派の頭となっている哲学者たちと同様の導き方で宣教をしていたと想定するのがしごく当然だと、私には思われる。さらに、その場合、(彼の)教えが神的なものであることを請け合う証言は現れなかったろうと、私には思われる。なぜなら(その場合、彼の)教えと宣教は、諸々の発話の仕方と措辞とに関する知恵に満ちた説得力のある諸々の言葉の内にあるからである。そして信仰は、諸々の学説に関するこの世の哲学者たちの信仰と同じように、人々の知恵の内にあることになり、神の力の内にはないことになろう。ところが今、初歩の教養さえ学んだことのない漁師たちや収税人たちが――福音は彼らについてそのように書き記しており、ケルソスも、それらのことに関して、彼らがみずからの無教養について真実を語っていると信じている――、イエスに関する信仰についてユダヤ人たちと大胆に議論するばかりでなく、他の諸国民の内で大胆にイエスを宣べ伝え、成功しているのを見るならば、どこからこのような説得力ある力が彼らに備わったかを、いったい誰が探求しないだろうか。確かにその力は、多くの人たちによって考えられているような力ではない。また、「私の後について来なさい。私は、あなた方を人間をすなどる漁師にしよう[1]」という言葉を、イエスは何らかの神的な力によってご自分の使徒たちの内で成就したと、いったい誰が言わないだろうか。我々が以前に述べたように、パウロも、次のように言って、この力に言及している。「そして、私の言葉と私の宣教は、知恵による説得力ある言葉の内にあるのではなく、霊と力とによる証明の内にある。それは、私たちの信仰が、人間の知恵の内にではなく、神の力の内にあるようにするためである[2]」と。預言者たちの内で言われていることによれば――彼らは、福音の宣教について予知的に告げている――、「愛されるべき方の諸々の力の王、主は、福音を告げる者たちに、大いなる力をもって言葉を与えるだろう[3]」とある。それはまさしく、「彼の言葉がすばやく駆け巡るために[4]」という預言が、成就されるためである。そして我々は、イエスの使徒たちの「声は全地に及び、彼らの諸々の言葉は居住地の隅々に及んだ[5]」ことを目にしている。かくして、力をもって告げられたみ言葉を聞いた人たちは、力に満たされたのであり、彼らは態度によって、生活によって、真理のために死に至るまで戦うことによって[6]、この力を証ししたのである。しかしながら、イエスを通して神を信じると公言しても、うわべだけの人たちがいる。彼らは、神の言葉に帰依しているように見えるが、神的な力の下にはいない。

上述の箇所で私は、救い主によって言われた福音の言葉に言及した。しかし、ここで再び、その言葉を使うのは、やはり時宜を得ていよう。それは私が、福音の宣教に関する我々の救い主の予知が極めて神的な仕方で明示されていること、および、教師たちがいなくても、神的な力を伴った説得によって数々の信者を獲得したみ言葉の力強さを証明するためである。実に、イエスは言っている。「収穫は多いが、働き手が少ない。だからあなた方は、主の収穫のための働き手を送って下さるよう、収穫の主に願いなさい[7]」と。



[1] Mt.4,19.

[2] 1Co.2,4-5.

[3] Ps.67,12-13.

[4] Ps.147,4.

[5] Ps.18,5; Rm.10,18.

[6] Cf.Si.4,28.

[7] Mt.9,37-38. なお本節は、『ケスソスへの反論』第1巻62節の後半からの抜粋である。参考までに、その前半を以下に訳出しておく:

次に(ケルソスは)使徒たちの数さえ知らずに、イエスが、収税人や船乗りといった評判の悪い極悪非道な人たちを十人ないしは十一人ほど自分の周りに集め、彼らと共にあちらこちらへと逃げ回り、見苦しくも執拗に食物を集めたと述べている。では、このことについても我々は、可能な限り取り扱ってみよう。福音の諸々の言葉を読んだこのとのある人たちには――ケルソスはそれらの言葉を読んでさえいないように見える――、イエスが)十二人の使徒を選び出したことは明らかである。その内、収税人はマタイであった。また、(ケルソスが)一からげに船乗りと述べた人たちは、おそらくヤコブとヨハネのことを言っているのだろう。なぜなら彼らは、船と「彼らの父ゼベダイ」を残して、イエスに従ったからである[7]。他方、ペトロとその兄弟アンデレは、必要な糧を得るために網を使っているところから、船乗りではなく、聖書が書き記しているように漁師に数え入れられるべきである。レビも、イエスに従った収税人であるとしよう。とはいえ彼は、使徒たちの数そのものには入っていなかった。ただし、『マルコによる福音』の写本の幾つかによれば、そうではない。他の使徒たちに関しては、彼らがイエスの弟子となる前にどのような仕事によって糧を得ていたかを我々は知らない。