さらにケルソスは、イエスの使徒たちを悪名高い人たちであり、極悪な収税人や船乗りであると言っている。そこで我々は、このことに関しても次のように言いたい。すなわち彼は、み言葉を非難するときは、(聖書に)書き記された諸々の事柄を望みのままに信じているように見える。しかし、同じ巻物に述べられている明瞭に現れた神性を受け入れたくないときは、諸々の福音を信じていないように見える、と。 (ケルソスは)諸々のより劣った事柄についての記述から書き手たちの誠実さを見て取ったのなら、諸々のより神的な事柄について(の記述から)も彼らの誠実さを信じるべきだった。たしかに『バルナバの公同書簡[1]』には――おそらくケルソスは、この書簡から(口実を)得て、使徒たちが悪名高く極悪であると言ったのだろう――次のように書かれている。イエスは、「ご自分の使徒たちをお選びになった」。「彼らは、一切の無法を超えた無法者たちであった」と。また、『ルカによる福音』では、ペトロがイエスに向かってこう言っている。「主よ、私から離れてください。私は罪人ですから[2]」。さらにパウロも、『テモテへの手紙』の中で次のように言っている――彼も、後に、イエスの使徒となった――。「み言葉は信じるに値する。なぜならイエス・キリストは、罪人たちを救うためにこの世に来られたからである。そして私は、罪人たちの中でも第一の罪人である[3]」と。しかし、なぜケルソスが、パウロに関して何かを言うのを忘れたか、あるいは言うつもりがなかったのか、私にはわからない。パウロは、キリストの後にキリストに結ばれた諸教会を創設した人物である。定めし彼は、パウロに関する話は、自分に説明を求めていると見て取ったのだろう。すなわち、神の教会を迫害し、信者たちと激しく争い、イエスの弟子たちを死に渡すことさえ望んだパウロが、どうして後ほど態度を変え、「エルサレムからイリュリクムに至るまでキリストの福音を広めようとした」のか、そして「福音を宣べ伝えたいという熱意に駆られ、他の土台の上にではなく」、キリストにおける神の福音が元から宣べ伝えられていない所に、(教会を)築こうとしたのかを[4]説明する必要があると見て取ったのだろう。したがってイエスが、諸々の霊魂を癒すのにどれほど大きな力を持っているかを人類に示そうとして、悪名高く極悪非道な者たちを選び出し、彼らを通してキリストの福音へと導かれた人たちのために、彼らをして極めて清浄な品行の模範となるようにしたのは、どうして馬鹿げたことだろうか[5]



[1] もちろんこれは、聖典に含まれていない。

[2] Lc.5,8.

[3] 1Tm.1,15.

[4] Cf.Rm.15,19-21.

[5] 本節は、『ケスソスへの反論』第1巻63節全体の抜粋である。