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再び同じ巻の前の箇所から[1]:我々の主への信仰は、異教の人たちの不合理で迷信的な信仰といかなる共通点も持たず、賞賛に値するものであるとともに、古来の諸々の共通観念に一致すること。また、死すべき体に属するイエスを、我々がどのような意味で神と見なしているのか問う人たちに対して。

 アンティノオスに関してであれ[2]、他の.それに類するものに関してであれ、エジプト人たちの許においてであれ、ギリシア人たちの許においてであれ、(彼らの)信仰は、私に言わせれば、不運である。ところがイエスに関する(信仰は)、幸運であるか、入念に吟味された結果であるように思われる。それは、多くの人たちの許では幸運であり、極めて少数の人たちの許では入念に吟味されたものであるように思われる。たとえ私が、何らかの信仰を、多くの人たちが言うように、幸運であると言っても、私は、そのような信仰に関しても、その理拠を神に帰す。なぜなら神は、この世の生に至った人たちのそれぞれ割り当てられた諸々の境遇の諸原因[3]を知っているからである。ギリシア人たちでさえ、極めて賢いと思われている人たちの場合でも、あれこれの教師たちの中で――数々の正反対の異説を教える教師たちがいるにもかかわらず――もっとも優れた教師たちに出会い、より優れた者たちの間で教育を受けることの原因は、多くの場合、幸運であると言うだろう。実際、多くの人たちにとって、教育に関する諸々の事柄は[4]、次のような事態の内にある。すなわち、(多くの人たちは)数々のより優れた事柄の表象を得ることもかなわず、むしろ幼少期から常に、無軌道な人たちや主人たちの養育の下にあるか、あるいは、上を見ることを妨げる他の不幸な境遇の内にある。このような事態に関する諸原因は、もちろん、摂理に属する諸々の理拠の内にあるが、それらが人々に思い当たるのは、容易ではない。しかし、「(人々の心を)あらかじめ捉えた信仰は、そのようなことをする[5]という(ケルソスの)言葉のゆえに、議論を中断し、ここで、以上のことを述べたのは適切であると私に思われた。実際、諸々の教育の違いによって、人々の間の数々の信仰の違いが生じ、人々が信じることの運不運が決まると[6]、彼は言うべきだった。このことから更に踏み込んで、より明敏な人たちなら、いわゆる(信仰上の)幸運と不運が、ともに次のことに貢献すると考えるかもしれないと言うべきだった。すなわち、(信仰上の幸運と不運は)より理性的な人たちにとってあるように見え、たいていの場合、諸々の教説に理性的な仕方で伴っているように見ることである。しかし、それらのことに関しては、これで十分であるとしよう[7]



[1] 前章末では、『ケルソスへの反論』第3巻第74節が抜粋された。本章では、同書同巻第3842節が抜粋される。

[2] VAntino,oj:詳細不明。

[3] ta.j aivti,aj tw.n e`ka,stw memerisme,nwn evpidhmou/nti tw/| bi,w| tw.n avnqrw,pwn:直訳すると、「人間たちの生に至ったそれぞれの者に割り当てられた諸々の事柄の諸原因を」となる。勿論、魂の先在が前提にされている。

[4] ta. th/j avnatrofh/k

[5] 「信仰が、境遇の違いをもたらす」というほどの意味である。

[6] 直訳は、「人々は、より幸運に信じるか、より不運に信じる」である。

[7] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第38節全体の抜粋である。