次に、ケルソスの次の言葉を考察しなければならない。彼は我々に言う。「信仰は、我々の魂を捕らえ、イエスに関するそんな賛同をもたらしている」と。確かに、我々の信仰は、そのような賛同をもたらしている。しかし、我々が万物に望む神を信じ、そのような信仰に導いてくれた人に感謝し、彼が神の助けなしにそのようなことを敢えて成し遂げることはなかったことを承認するとき、そのような信仰は賞賛に値する性質を提示しているのではないのか、あなたはお考えください。また我々は、諸々の福音を書いた人たちの諸々の意図を信じている。我々は、彼らの敬虔さと良心を見抜いており――それらは、彼らの書き物に明瞭に現れている――、彼らには、いささかの不誠実さもいい加減さも、いささかの捏造も背信もない。さらに次のことも、我々に提示されている。すなわち、ギリシア人たちの許にあって、多大な説得力と鋭さを持つ背信的な詭弁術や、諸々の法廷で横行している弁論術が教えているような諸々の事柄を学ばなかった諸々の魂は、信仰へ招き信仰に比例した生活へと導く力をおのずと持つことのできる諸々の事柄を捏造し得ないだろうということである[1]。それゆえイエスも、そのような(詭弁術や雄弁術を知らない)教義の教師たちを側に置こうと望んでいたと、私は思っている。それは、数々のもっともらしい詭弁を憶測させる余地がいささかもないようにし、むしろ理解することのできる人たちに次のことが輝かしく現れるためである。すなわち、(諸々の福音を)欠いた人たちの意図の純真さは――彼らの意図は、いわば著しい平坦さを備えている――より神的な力に値したのである。その力は、諸々の言葉の豊かさや諸表現の構成、ギリシア語特有の分節と技法に即した一貫性[2]が成し遂げると思われている以上に、はるかに多くのことを成し遂げるものである[3]



[1] オリゲネスは、表現内容の真実さよりも、説得力を優先する詭弁術(sofistei,a)や法廷における弁論術(r`htorikh,)そのものを退ける。

[2] 省略

[3] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第39節全体の抜粋である。