あなたは、諸々の共通観念を元から支持する我々の信仰に属する数々の事柄が、語られた諸々の事柄を慎重に聞く人たちを変えていないのかどうかお考えください。実際、(偶像崇拝の)変節が、多くの初歩教育の支持を受けて、諸々の偶像を神々と見なす教えや、金や銀や象牙からできた諸々の物を崇拝すべきものと見なす教えを、多くの人たちに植え込むことができる。しかし、共通観念は、神が朽ち果てる材料では決してなく、魂のない諸々の材料から人々によって――「像に従って[1]」あるいはその何らかの数々の象徴に即して造形され尊ばれるものでもない。それゆえ、諸々の偶像に関して「それらは神ではなく[2]」と、そのような諸々の造形物は創造主と比べ物にならないと直ちに言われる。それらのものは、すべてのものの上に位する神、万物を創造し維持し導く神に比べると、些細なものである。(語られた諸々の事柄を慎重に聞く人たちの)理性的魂も、(神との)親近性を悟ったかのごとくに、それまで神々であると思いなしてきた物を斥け、造り主への自然本性的な愛情[3]を受け取る。そして、その造り主への愛情を通して、以上の諸々の事柄を諸国のすべての民に最初に提示した方――この方は、みずから準備した弟子たちを通してそれらの事柄を低維持したのであり、神的な力と権威とをもって彼らを遣わし、神と神の支配とに関する教えを宣べ伝えさせた――を受け入れるのである[4]



[1] Gn.1,26.

[2] Ac.19,26.

[3] fi,ltron ))) fusiko.n to. pro.j to.n kti,santa:「造り主への自然本性的な愛情」と訳したが、「造り主への自然本性的な媚薬」の方がよいか。

[4] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第40節全体の抜粋である。