4 どれほど頻繁にケルソスが非難しているのか私には分からないが、「我々が、死すべき身体からできているイエスを神と見なし、その点で我々は、数々の敬虔なことを行っている」として、ケルソスは我々を非難している。それに対しては、すでに前の巻で、多くのことが述べられたので[1]、改めて反論することは、余計なことであろう。しかし、批判者たちは、次のことを知っておくべである。すなわち、我々が元から神であり神の子であると見なし信じている方は、ロゴス(言葉)そのものであり、知恵そのものであり、真理そのものである[2]。また、彼の死すべき身体と、その中にある人間的な魂は、彼との交流ばかりでなく、一致と混合とによってもっとも偉大な諸性質を帯び、彼の神性を共有することによって神に変えられたと主張する[3]。彼の身体に関して、我々がこのように言うことによって、もしも躓く人がいれば、厳密な言葉の意味で無性質な質料に関してギリシア人たちによって言われていることに、その人は留意すべきである。すなわち、その質料は、造り主がそれにまとわせたいと望む諸性質を帯び、しばしば以前の諸性質を捨て、より優れたさまざまの諸性質を受け取る[4]。もしもそれらのことが健全であるとすれば[5]、イエスの身体に関する「死すべきもの」という性質が、そう望む神の摂理によって、エーテル的な神的性質に変えられるのが、どうして驚くべきことだろうか[6]



[1] Cf.C.Celsum, I, 69.

[2] 原語はいちいち挙げないが、「ゴロスそのもの」、「知恵そのもの」、「真理そのもの」は、プラトンのイデアを想起させる。しかし、それらはイデアのよう即自的に存在するものではなく、最高神である父なる神に源泉を持ち依存している(eg.Com.Jn.VI,6; Hom.Jr.VIII,2)。さらにそれらは、神の子の内に位格化(人格化)されている(Com.Jn.I,9:GCS 4m 14-15; XXXII,11:GCS 4, 444,3)

[3] 神の子の人性が神性に変えられたとする単性論を思い起こさせる。しかし、オリゲネスの時代には、人性と神性を包括するペルソナ概念は確立されていなかった。それは、ネストリオス派との論争の中で、5世紀に公式に確立された。それゆえ、この発言をもって、彼を単性論者と決め付けることはできない。本文をよく読むと、人性は神性を「帯び」つつも、それ自体としては存続していることが当然の前提になっている。

[4] Cf.De.Princ.II, 1,4(GCS 5, 109,22-3; 110, 4-6) :Materiam erugo intelligimus quae subjecta est corporibus, id est ex quam inditis atque insertis qualitatibus, corpora subsistent… Haec tamen matria quamvis, ut supra diximus, secundum suam propriam rationem sine qualitatibus sit, nunquam tamen subsistere extra qualitates invenitur; De Or.27,8(GCS 2, 568, 8-10); Com.Jn.XIII,21(GCS 4, 254m 5-7); Platon, Tim.51a.

[5] オリゲネスは、自説を独断的に述べない。彼は、自分の説が仮説であることを常に強調している。

[6] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第41節全体の抜粋である。