ケルソスが、イエスの人間的な肉体を、金や銀や石になぞらえ、彼の肉体はそれらよりも滅びやすいと言ったのは、論客として相応しい発言ではない[1]。なぜなら厳密な言葉の用法に従えば、不滅なものは、不滅なものよりも不滅であることはなく、可滅的なものは、可滅的なものよりも可滅的であることはないからである[2]。しかし、(可滅的なものが)より可滅的であるとしても、私はそれに対して次のように言いたい。すなわち、すべての諸性質の下にある質料が諸性質を変えることができるとすれば、諸性質を変えたイエスの肉も、(その肉が)エーテル()の中で、あるいはそれよりも上方にあるもろもろの場所で暮すのに必要な性質を帯びる――そのとき(イエスの肉は)、肉的な弱さに属するもろもろの事柄や、ケルソスが、より汚らわしいものと名づけている事柄の数々を持たない――と[3]。さらに、このように(肉に属する事柄をより汚らわしいものと名づける)ことも、知恵を愛する者として相応しいことではない[4]。なぜなら、厳密な意味で汚らわしいものは、悪に由来するものだからである。しかし、身体の本性は、汚らわしいものではない。なぜなら身体の本性は、身体の本性の点では、汚らわしさを生み出す原因である悪を持たないからである[5]



[1] 省略

[2] これは、ストア派の理論でもある。Cf.C.Celsum,II,7; V,28.

[3] 可滅的なものが不滅のものに変わることは、言ってみれば属性の次元で行われるのであって、実体(基体)の次元では行われないというのが、本節でのオリゲネスの論旨であるCf.Com.Jn.XIII,61 (GCS 4, 293):「可滅的な本性が不滅性を帯びると言うことと、それが不滅のもに変えられると言うことは、同じことではない」。

[4] ここから、オリゲネスにとって、前出の「論客」(dialektiko,j)や「知恵を愛する者(哲学)」の真の態度がどのようなものであるかが容易に推察できる。いずれも、真実に基づかなければならない。ただし、オリゲネスの場合、その真実は、信仰を前提にしている。

[5] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第42節の前半の抜粋である。その後半を訳出すると、次のようになる:

次に彼は、我々からの弁明を予想し、彼の肉体の変化に関して次のように言っている。「しかし、それは、それらの性質を捨てたとなると、神になるだろう。そうであれば、アスクレピオスやディオニュソスやヘラクレスも、どうして神にならないだろうか」と。我々は、次のように言いたい。アスクレピオスやディオニュソスやヘラクレスが、いったいどれほど偉大なことを成し遂げたのか。彼らが神々となるために、振る舞いの数々を改善し、自分たちの生活と諸々の言葉によってより優れた者になったことを、そもそも誰が証明できるだろうか。実際、我々が彼らに関する多くの物語を読んでみると、彼らが放縦や不正、無思慮や臆病を免れていたかどうかがわかる。もしも、そのようなものが彼らの内に何も見出されなければ、それらの人たちをイエスと同列に置くケルソスの議論にも論拠があろう。しかし、たとえ彼らに関して、いくつかの善益が指摘されるとしても、正しい道理に反することを無数に行ったことが書き記されているのは明白なのであるから、彼らが、死すべき身体を捨てると、イエス以上に優れた意味で神になると、どうしてあなたは正当に言うことができるだろうか。