イザヤは、まさに(聖書の諸々のみ言葉が)封印されていることに関して、次のように述べている。「そしてそれらの言葉はすべて、あなたにとって、封印されたこの巻物の言葉のようになる。(人々が)その巻物を、文字を知っている人に渡して、『それらの文字を読んでください』と言っても、その人は『私は読むことができない。なぜならそれは封印されているから』と言うだろう。またその巻物が、文字を知らない人の手に渡され、その人に『それを読んでください』と言っても、その人は『私は文字を知らない』と言うだろう[1]」。これらのことは、ヨハネの黙示やイザヤに関して言われているばかりでなく、聖書全体に関して言われていると見なされなければならない。なぜなら限られた程度であるにしても諸々の神的なみ言葉に精通することのできる人々の許では、それらのみ言葉が数々の謎や、喩え、「諸々の闇の言葉[2]」、その他の多種多様な不明瞭な形象に満たされていて、人間の本性によっては捉えがたいことが一致して認められているからである。救い主もそのことを教えようとお望みになって次のように言っている――このとき(聖書)を開く道を見出そうと努めなかった律法学者たちとファリサイ派の人たちの許に鍵があった――。「あなた方、律法の専門家たちは不幸だ。あなた方は認識の鍵を取り上げて、あなた方自身が入ろうとしない。そして入ろうとする人たちに入ることを許さない[3]」と。



[1] Is.29,11-12.

[2] Cf.Pr.1,6.

[3] Lc.11,52; cf.Mt.23,13.オリゲネスのこの聖書箇所の解釈は独特であろう。彼によれば、律法学者たちやファリサイ派の人たちは、聖書の真意を意図的に隠したのではなく、そもそも人間には近づき得ないものとして、その理解・認識の鍵を取り上げていたということなのである。