また、少し後で

 しかし我々は諸々の詩編の解釈を始めるにあたって、聖書全体についてヘブライ人によって我々にあまねく伝えられた極めて見事な伝承を前置きしておこう。このヘブライ人は、次のように主張していた。すなわち霊感を受けた聖書全体は、その内にある不明瞭さのゆえに、一軒の家の中にある施錠された多くの部屋に似ている。そしてそれぞれの部屋の前には、その部屋に合わない鍵が置いてある。このように諸々の部屋の回りに鍵が散らばって置かれているが、それらの鍵はそれぞれ、それらが置かれた部屋とは一致しない。最大の課題は、それらの鍵を見出して、それらが開けることのできる部屋に、それらを合わせることである。不明瞭な聖書もこのように理解される。なぜならそれは、解釈の手がかりをそれ自身の内に互いに分散した形で持っている(聖書の)諸々の箇所から出発する以外に、理解される諸々の機会を持たないからである、と。実のところ私は、使徒も、諸々の神的な言葉を理解するためのそのような方途を暗示して、次のように言っていると思っている。「これらのことを私たちは、人間の知恵が教える諸々の言葉によらず、霊が教える諸々の言葉の内に、諸々の霊的なものを諸々の霊的なものと比較しながら語ります[1]」とある。



[1] 1Co.2,13.オリゲネスによると、聖書全体の真の著者は、唯一の神である。したがって聖書のすべての語句には、唯一の神の唯一の意思(nou/j)あるいは次節で述べられているように神の知恵――それは人類の救済意志であり、人類への愛である――が底通しており、難解な字句の解釈は、他の箇所を参照することによってその手がかりを得ることができるのである。これが彼の聖書解釈の根本的姿勢である。しかしそのような考え方は、彼独自のものではなく、同時代のタルグムに由来する。Cf.R.Le Déaut, La nuit pascale, Rome(An.Bi.22), 1963, p.58s.