また、かなり後で

 しかしもしも「主の諸々の託宣が汚れなき託宣、火で焼かれ土で確かめられ七たび清められた銀である[1]」ならば、そしてそれらを聖霊が、全き厳密さで吟味しつつ、「み言葉の奉仕者たち[2]」を通して(聖書に)書き下したとすれば、我々までもがその類比[3]に気づかないということがないようにしよう。なぜなら神の知恵は、その些細な文字に至るまで、神の息吹を受けた聖書全体に浸透しているからである。おそらくそれ故に救い主も、次のように言っているのだろう。「すべてが実現するまで、律法から一点一画も消え去ることはない[4]」と。実際、宇宙の創造に際して、神的な技は、天にも太陽にも月にも、数々の星にも顕れていて、それらの物体のすべてに行き渡っているだけではない。その技は、地上にあっても、いっそう粗末な物質においても同じことを行ってきたのである[5]。したがってこの巧みな職人からは、もっとも小さな生物たちの諸々の身体も、いわんやそれらの身体に内在する諸々の魂もないがしろにされることはない――これらの魂は、それぞれ何らかの個性をそれ自身の内に備えており、非理性的であっても(みずからの)救いに資するものを持っている。また地から生え出た諸々の植物も、この巧みな職人からないがしろにされることはない。なぜならこの巧みな技はそれらの各々に内在し、諸々の根にも、諸々の葉にも、諸々の結実した実にも、様々な性質にも関わっているからである。我々は、聖霊の息吹によって書き記されたすべての事柄に関しても、同様に考えている。人知を超える知恵を諸々の文字を通して人類に与えて下さった神聖な摂理は、一つひとつの文字の内に、それが知恵の諸々の痕跡を受け入れている限りで[6]、救いの諸々の託宣をいわば種まいたのである。



[1] Ps.11,7.

[2] Cf.Lc.1,2.

[3] 「その類比」:直前の抜粋されなかった箇所を受けている。なお次節から明らかなように、グノーシス主義者たちはこの類比に気づいていない。

[4] Mt.5,8.

[5] アリストテレスの摂理に対する批判が含意されているように思われる。

[6] 直訳は「知恵の諸々の痕跡を受け入れた(evndeco,menon)文字に関して」である。「受け入れた」のギリシア語原語は、二文上の「諸々の結実した実」の「結実した」と同じである。