したがってそれらの書が世界を創造した方に由来するものであるとひと度受け入れた者は、創造の関する理拠を探求する人たちがその創造に関して遭遇する諸々の事柄は、それらの書に関しても見出されるということを確信すべきである。たしかに被造物の中には、人間の本性にとっては見出し難い、あるいは見出しえない何らかの事柄が幾つも存在する。しかしそれだからといって、たとえば我々が、諸々のバシリスク[1]の創造や毒液を放つ他の諸々の野獣の創造の原因を見出さないからといって、すべてのものの創り主を非難すべきではない。実にこの場合、我々人類の弱さを自覚する者にとって、全き厳密さで(万物を)観想する神のみ言葉の巧みな技の幾ばくかを把握することは我々にはいかにしてもできぬのであるから、それらの事柄の知識を神に委ねるのは敬神にかなったことである[2]。神は後に、もしも我々が相応しいと判断された場合には、我々がいま敬虔な思いで立ち止まって見つめているそれらの事柄を我々に明らかにしてくれるだろう。同様に神的な諸々の書においても、我々には明確にし難い多くの事柄がそれらの書の中に蓄えられていると考えるべきである。とにかく世界をお造りになった神から離反した後、自分たちの作り出したものを神として崇める人たちは、我々が彼らに突き付けた諸難問[3]を解いてみるべきである。あるいは探求されている諸々の事柄に関して、そして彼らに突き付けられた数々の難問に関して、自分たち自身の良心に向かって、そのような大それた不敬な蛮行の後もなお、彼らの許にある諸々の仮説と調和して安心していられるように説得してみるべきである。しかし彼らが神なるもの[4]から離反した場合でも、数々の難問が相変わらず残るとすれば、むしろ神に関する(共通)観念[5]に留まって――実に創造主は諸々の被造物から観想される[6]――、それほど偉大な神について不敬虔で無神論的なことをいささかも表明しないことの方が、どれほど敬虔なことだろうか。



[1] basili,skoi:ニワトリのトサカと体、ヘビの尾を持つ伝説上の動物で、吐く息やひと睨みで人を殺したとされる。

[2] グノーシス主義者のように創造の神秘について行き過ぎた詮索をして、空しい作り話を捏造すべきではないということが暗示されている。

[3] 直訳は、「自分たちが捏造したものに、神として駆け寄る人たちは、我々によって彼らに突き付けられた諸問題」である。

[4] qeo,thj)

[5] h` evnnoi,a th/j peri. qeou/)

[6] Cf.Rm.1,20.