10 しかしケルソスは、蜂たちについて語り――それは、我々キリスト教徒たちばかりでなく、すべての人たちの諸都市や諸々の統治や諸権威や諸指令や諸々の祖国のための数々の戦いを、彼が力の限りを尽くして軽視するためである――、更に蟻たちの賛歌を付け加えている。彼は、蟻たちのための賛歌によって、食物に関する人間たちの遣り繰りを台無しにし蟻たちとの比較によって(人間たちの)冬の暮らしの予知を無に帰そうとしている――その予知は、彼が蟻たちの内にもあると思い込んでいる彼らの非理性的な予知に少しも優らないとして。しかしケルソスは、すべての事柄の本性を洞察する術を知らない一層単純な人たちのいったい誰を、数々の重荷に打ちひしがれた人々を助ることから、そして、彼らとともに数々の労苦を共有することから、自分の力の限りを尽くして逸らせないだろうか――蟻たちについて、彼らも、(仲間の)誰かが苦しんでいるのを見たときには、互いに重荷を担うと言うことによって。なぜなら、理性による教育を欠いており、その教育を決して理解しない人は、次のように言うかもしれないからである。すなわち、我々が数々の極めて重い重荷を担うことによって苦しんでいる人たちを助けるときでさえ、我々は蟻たちと少しも違わないのなら、どうして我々は、無益にもそのようなことをするのかと。実に蟻たちは、非理性的な動物であるから、自分たちの諸々の業を人間たちと比較することによって思い上がり尊大なことを考えたりはしないだろう。ところが人間たちは、蟻たちと共通する事柄をどのようにすれば軽視することができるかを理性を通して理解することができるので、その限りで、ケルソスの著作や彼の諸々の言葉に欺かれるかもしれないのである。ケルソスは、自分の書物の読者たちをキリスト教から逸らせようと望んで、キリスト者ではない人たちからも、数々の重荷の中でももっとも重い重荷を担う人たちに対する同情心を逸らせていることに気づいていない。もしも彼が共通なものに気づいている哲学者であるならば、彼は、人々の内にある数々の有益な事柄をキリスト教とともに破壊しないばかりか、キリスト教の内にあって、他の人々とっても善となる数々の共通の事柄に、できることなら協力すべきだった。

 たとえ蟻たちが、蓄えられた諸々の実から、数々の芽生えを取り除き、それらのみが熟さずに、一年を通して彼らの食物として残るようにさせるとしても、それらの事柄の原因は、蟻たちの中にある理性的思考ではなく、万物の母である自然[1]であると推測されねばならない。自然は、非理性的な動物をも支配し、(それらの)最小のものをも見捨てることなく、自然の理法に由来する痕跡を帯びるようにさせた。以上の諸々の事柄を通して、ケルソスが密かに望むつもりでなけれ[2]――たしかに彼は、多くの個所でプラトン化しようとしている[3]――、すべての魂は同じ種に属しており、人間の魂は、蟻たちや蜂たちの魂とまったく異ならないと望んでいる。それはつまり、魂を、天の穹窿から、人間の身体にばかりでなく、他の諸々の身体にも導き落とすことを意味する[4]。しかし、キリスト者たちは、それらのことを信じないだろう。なぜなら彼らは、人間の魂が神の「似像に即して」造られたことを既に知っており、神の「似像に即して」創造された本性が、それ自身の数々の特徴を完全に抹消し、非理性的な動物たちの中に見出される諸特徴――いったいどのようなものたちの諸似像に即して造られたのか私には分からない諸特徴――を受け取ることなどあり得ないと分かっているからである[5]



[1] 省略

[2] すなわち、「公然と望んでいれば」という意味である。

[3] 省略

[4] 省略

[5] オリゲネスは、魂の先在と天上からの転落を仮説としては認めても、他の非理性的な動物への転生を認めない。これは、初期の論考である『諸原理について』から一貫した考え方である。なお、本節は、『ケルソスへの反論』第4巻83節全体の抜粋である。