11 さらにケルソスは、「死んだ蟻たちのために、生きている蟻たちが何かしら特別の場所を選定する」と言い、「それは、彼らにとって父祖伝来の記念である」と言っている。それゆえ、次のように言わなければならない。彼が、非理性的な動物たちを賞賛すればするほど、たとえ彼が望まなくとも、万物を秩序づけたみ言葉の業を称揚しているのであり、非理性的な動物たちの本性がもたらす数々の成果を理性によって秩序づけることのできる人間たちの俊敏さを明らかにしているのであると。しかし、なぜ私は、「非理性的な動物たち(の本性)」と言うのだろうか。それは、すべての人たちの共通観念によれば非理性的であると呼ばれている動物たちが、ケルソスにとっては非理性的であると思われていないからである。実に彼は、自然本性の全体に関して語ると請け負い、(真理についてという彼の)巻物の表題の下に真理を誇っておきながら、蟻たちを非理性的であるとは思っていない。たとえば彼は、蟻たちが互いに対話をしてるかのごとくに扱い、次のようなことを言っている。「疑いもなく(蟻たちは)、互いに落ち合うと、対話をする。それだから彼らは、(餌や巣への)諸々の道を間違えないのである。したがって彼らには、理性の充満と或る幾つかの普遍的な事柄について数々の共通観念と声と諸々の出来事と諸々の意味[1]が存在する」。たしかに人と人との対話は、声で行われる。その際、声は、何らかの意味を指し示すばかりでなく、出来事と呼ばれている諸々の事柄を述べている。そのようなことが蟻たちの内にもあると言うことが、どうしてもっとも馬鹿げたことにならないだろうか[2]



[1] 省略

[2] 本節は、『ケルソスへの反論』第4巻84節全体の抜粋である。