12 彼は、以上のことに付け加えて、次のように言い、恥じることがない――彼は、みずからの諸教説の不体裁を彼の後に来る者たちに曝け出しているからである――。彼は言う。「したがって、もしも人が天から地上を見下せば、我々によって成し遂げられた諸々の事柄と、蟻たちや蜂たちによって成し遂げられた諸々の事柄の、一体いずれが秀でていると思うだろうか」と。彼に仮説に従って天から地上を眺め、人間たちによって成し遂げられた諸々の事柄と蟻たちによって成った諸々の事柄を見る人は、人間たちと蟻たちの身体を見てはいるが、思慮によって動かされる理性的な主導能力とともに、衝動と表象によって――何らかの自然本性的な本能に即しつつ――非理性的に動かされる非理性的な主導的能力を考えてはいないのだろうか。しかし、天から地上の諸々の事柄を見下ろす人が、(天と地という)途方もない隔たりを超えて、人間たちと蟻たちの諸々の身体を見ようとするのは馬鹿げたことである。むしろその人は、諸々の主導的能力の諸本性と、数々の衝動の理性的ないしは非理性的な源を見ようと欲すべきである。もしも一度でも、すべての衝動の源を見たなら、その人は、蟻たちに対してばかりでなく、象たちにも対する人間の違いや卓越性に気づいただろう。実際、天から非理性的な動物たちの内に何かを見る人は、それらの身体がどんなに大きくても、言うなれば非理性という以外の源しか見ないだろう。それに対してその人は、理性的な動物たちの内に、人間たちに共通の理性を見るだろう。この理性は、神的な者たちや天上にいる者たちに通じている。そして、おそらくそれは、万物に臨む神にも通じていよう[1]。実に人間たちが、神の像に即して造られたと言われているのは、そのためである。なぜなら万物に臨む神の像は、神の理性(ロゴス)だからである[2]



[1] 省略

[2] Col.1,15. なお本節は、『ケルソスへの反論』第4巻85節全体の抜粋である。