13  次に(ケルソスは)、人類を大いに貶めて非理性的な動物とたちに等しいものにしようと躍起になり、非理性的な動物たちの内に現れていると報告される数々の偉大さを一つも残さないようにするかのごとく、さらに魔術に関する数々の事柄さえも、非理性的な動物たちの幾つかの内に存在すると言っている。その結果、人間たちは、その点において誇ることもできず、非理性的な動物たちに対する卓越性を持っていると主張することもできないとされる。彼は、次のように言う。「しかし人間たちが、魔術においても何事かの誇りを抱いていても、すでに蛇たちや鷲たちは、そのことに関しても(人間たち)より賢い。実にそれらは、多くの解毒剤や治療薬を知っており、子どもたちの安全のための諸々の岩石の幾つかの効力を知っている。人間たちはそれらを見出しては、何かしらすばらしいものを持っていると思い込む」と。第一に、どうしてケルソスが、諸々の自然本性的な解毒剤に関する動物たちの経験なり或る本性的な把握なりを魔術と名づけたのか私には分からない。というのは、魔術という名称は別の意味で用いられるのが普通だからである。ケルソスはエピクロス派の一員として、それらの一切の使用を、魔術師たちの約束に掛かるものだとして密かに中傷しようとしているのだろうか。しかし、人間たちが魔術師であろうとなかろうと、それらの覚知において人間たちが大いに誇っていることを、彼とともに認めたとしても、どうしてその点で人間たちよりも、鋭い視覚や俊敏な動きのためにウイキョウを使う蛇たちの方が賢いと言えるのか。それらは、その自然本性的な能力を、思慮からはなく、(その自然本性的な)構成から得ているにすぎない。ところが人間たちは、単なる自然本性から、そのような能力に行き着くのではない。ある場合には体験から、他の場合には理性から、しかしときには知識に基づく思慮からその能力に行き着く。同様に鷲たちが、巣の中にいる子どもたちの安全のために鈴石[1]を見つけて巣に運ぶとしても、どうして鷲たちが、人間たちよりも賢いと言えるだろうか。人間たちは、鷲たちに与えられている自然本性的な助けを体験から思慮を通して見出し、知性を行使しつつ使っている[2]。しかし、他の諸々の解毒剤が動物たちによって知られるとしても、どうしてそのことが、動物たちにおいてそれらの解毒剤を見出したものが自然本性ではなく、理性であるということの証明になるのか。見出したものが理性であるとすれば、それが見出すものは、蛇たちにあっては或る特定の解毒剤――二つであれ三つであれ――だけではなく、蛇たちや同様に他の動物たちにおいても他の解毒剤だけでもない。それは、人間たちにおいて見出されるのと同じだけの解毒剤を見出すはずである。しかしながら、個々の動物の自然本性が諸々の特定の助けに向かうということから、それらの動物たちにあるのは知恵や理性ではなく、動物たちの安全のためにそれらの数々の助けへと向かう自然本性的な構成――これはみ言葉によって造られた――があることは明らかである。



[1] 直訳は「鷲の石」。鷲巣の中にあると言われる石。

[2] 以上は、『ケルソスへの反論』第4巻86節全体の抜粋である。これに続き、同所第4巻第87節の前半が抜粋される。