15 しかし彼は、神に関する諸々の観念も、人類においては、すべての死すべき動物たちに比べて特別なものではなく、非理性的な動物たちの幾つかも神について思念していることを更に立ち入って主張しようとしている――神に関しては、ギリシア人たちであれ夷狄たちであれ、あらゆる所にいる人々の中で比較的明敏な人たちの間には、実に多くの不一致があるにもかからず。彼は次のように言う。

「人間が、諸々の神的観念を有している点で他の動物たちに勝っていると考えられるなら、そのことを主張る人たちは、他の動物たちの多くがそのことをも要求するだろうということを知るべきである。これは至極当然のことだろう。実際、諸々の将来の事柄を予め知り予示することよりも神的なことよりも神的なものが何かあると誰が言えるだろうか。さらに人間たちは、他の動物たちから、取り分け鳥たちから、そのことを学ぶ。そして、それら(動物たち)の諸々のしるしを聞き分ける人たちは、占師たちである。してみると、もしも鳥たちや、占いをする他の動物たちが神から予め知り、数々の象徴を通して我々に教えてくれるとすれば、それらの動物は、その分だけ、神的な交わりにいっそう近いものとして生れついているのであり、より賢明でより神に愛されていることになろう。また、人間たちの中で理解力のある者たちは、それら(の動物たち)には数々の会話もあると言っている。もちろんそれらの会話は、我々のそれより神聖である。彼らは、(それらの動物たちの間で)語られた諸々の事柄を何らかの仕方で知っており、彼らが(それらを)知っている事実を(みずからの)行いによって証明できるとさえ言っている。すなわち彼らは、鳥たちが(彼らに)どこかある場所に出かけ、あれこれの事柄を行なうように告げたと予め述べた上で、みずからその場所に出向き、予め述べた諸々の事柄を行なって見せるのである[1]。さらに象たちは、彼の覚知を持っているのはまったく疑い得ないことであるから、象たちよりも誠実で、諸々の神的なものに忠実なものは何もないように思われる」と。

しかしあなたは、これらの事柄において、ギリシア人たちの間で哲学する人たちの許ばかりでなく、夷狄の人たちの間で哲学する人たち――彼らは、人間たちに何らかの予言をもたらすと言われている占いの鳥たちやその他の動物たちに関する諸々の事柄を見出したか、何らかの鬼神たちから学んでいる――の許でも問題にされたどれほど多くの事柄を、彼が一からげに同意されたものとして提示しているかに注目すべきです。第一に、鳥占いの術のようなものが、あるいは一般に、動物たちを通した占いが存在するのか否かが問題にされた。第二に、鳥たちを通した占いが存在することを受け入れている人たちの間で、占いという手段の原因をめぐって意見が割れた。すなわち、或る人たちは、何らかの鬼神たちや占いをする神々たちによって諸々の動きが動物たちに生じると主張する――たとえば鳥たちには様々な飛行や様々な鳴声への動きが生じ、他の動物たちにはあれこれの諸々の運動への動きが生じると主張する[2]。他の人たちは、それらの動物たちの諸々の魂は、より神的であり、そのことに適していると主張する[3]。しかしこれは、まったくあり得ないことである[4]



[1] 省略

[2] 省略

[3] 省略

[4] 以上は、『ケルソスへの反論』第4巻第88節全体の抜粋である。