16 したがってケルソスは、目下の諸々の話題を通じて、非理性的な動物たちが人間たちよりも神的で知恵があることを証明しようと望むなら、その種の占いが実在することを詳細に論証し、そのための弁明をより明白に示すべきであった。次に、その種の諸々の占いを否定する人たちの諸々の論拠を理路整然と退け、鬼神たちや神々から占いをするための諸々の動きが動物たちに生じると主張する人たちの諸々の論拠を覆すべきである。そして、非理性的な動物たちの魂は、その点に関して、より神的であることを論証すべきだった。こうして彼が、そのような諸々の事柄に関して哲学的な素養を示したなら、我々は、我々にできる限りで、彼のもっともらしい諸見解に反対したことだろう――我々は、非理性的な動物たちが人間たちよりも賢いとする見解を覆し、それらが神に関して我々以上に神聖な諸観念を有しており、互いに何らかの神聖な会話を行なっているとする見解を偽りとしただろう。ところが彼は、我々が万物に君臨する神を信じているとして我々を非難し、鳥たちの諸々の魂が人間たち以上に神的で明晰な諸観念を持っていることを我々が信じるのがよいとする。もしもこのことが真実であれば、鳥たちの方がケルソス以上に、神に関してより明晰な諸観念を持っていることになる。ケスソスが人間をこれほどまで貶めるとしても、驚くべきことではない。また、ケルソスに従う限り、鳥たちは、我々キリスト者や我々と同じ諸文書を利用しているユダヤ人たちは言うまでもなく、ギリシア人たちの間にいる神学者たち以上に偉大で神的な諸観念を持っていることになる。なぜなら彼ら(神学者たち)は人間だからである。とすると、ケルソスによれば、占いをするとされる鳥たちの種族は、フェレキュデスやピュタゴラスやソクラテスやプラトンに優って、神的なものの本性を捉えていることになる。そして我々は、鳥たちを教師として、それらの許に通わねばならなかったろう。なぜなら、ケルソスの推測によれば、鳥たちは、将来の諸々の事柄を占って我々に教えるように、神的なものに関する明瞭な観念を捉え(我々に)伝授することによって、神的なものに関する疑いから我々を解放してくれるからである。したがって、鳥たちの方が人間たちよりも秀でていると思い込むケルソスにとって、鳥たちを教師として迎えるべきであり、ギリシア人たちの許で哲学をした人たちに指示すべきでないとするのは当然の帰結である[1]



[1] 以上は、『ケルソスへの反論』第4巻第89節全体の抜粋である。