17 しかし、目下の諸々の問題に対して言いたいことは多数あるが、我々は、その内の幾つかを述べ、彼を造った方に対する忘恩に満ちた謬見を論駁しなければならない。実際、ケルソスは、「栄華の内にある人間」でありながら「悟らなかった[1]」。それゆえ彼は、占いをすると見なしている鳥たちや他の非理性的動物たちと「同等になった[2]」どころか、非理性的な動物たちを神々として崇拝するエジプト人たちに優る卓越性をそれらに与え、彼自身と人々の種族全体とを可能な限りそれらに服従させた――人々の種族は、神的なものに関して、非理性的な動物たちよりも卑しく劣ったことを理解するとする。

 そこでまず、占いをすると信じられている鳥たちや他の動物たちを通した占いが実在するのか実在しないのかが検討されるべきである。なぜなら、このいずれに対しても、軽視すべからざる議論が為されているからである。ある議論は、それらのことを受け入れるのを慎ませる。なぜなら理性的な動物は、鬼神たちの託宣の代わりに鳥たちを利用して、鬼神たちの託宣を捨てかねないからである。しかし他の議論は、多くの人たちが鳥たちを通した占いを信用することによって、数々の極めて大きな危険から救われたことを、多くの人たちによって証言された自明な事実によって示している。差し当たり、鳥占いが現実のものであるとしよう。しかしそれは、たとえそのことが認められても、非理性的な動物たち――取り分け占いをする動物たち――に対する人間の卓越性は、それらの動物たちとは決して比べものにはならないことを、(鳥占いに)夢中になっている人たちに示すためである。そこで、次のように言わなければならない。もしもそれらの動物たちの内に、将来の諸々の事柄を予知し得る神的な本性のごときものがあり、その本性が人間たちの内で望む者に将来の諸々の事柄を惜しみなく明示するほど豊かであるとすれば、それらの動物が、自分たち自身の諸々の事柄をはるか以前に知っているのは明らかである。しかし、自分たち自身に関する諸々の事柄を知っているとすれば、それらの動物は、人間たちが諸々の罠や諸々の網をそれらに対して仕掛けた場所や、射手たちが飛んでいる動物たちに狙いを定め、空らを目がけて諸々の矢を放つ場所などに飛んでいかないように用心しただろう。また、鷲たちが、雛鳥たちに対する攻撃――蛇たちがそれらを狙って(木を)登り、それらを殺す場合であれ、人間たちの誰かが楽しみのためであれ、その他の必要なことや治療のためにそれらを捕まえる場合であれ――を予知しているなら、攻撃を受けるのが必定なところで抱卵することは確かになかっただろう。要するに、それらの動物たちのどれ一つとして、人間たちよりもいっそう神的でいっそう賢明なのであるから、人間たちに捕らえられることは決してないだろう[3]



[1] Ps.48,21.

[2] Cf.Ps.48,21.

[3] 以上は、『ケルソスへの反論』第4巻第90節全体の抜粋である。