18 しかし、たとえば鳥たちが戦いをするとし、ケルソスが言うように、占い鳥たちが神的な本性を持ち、他の非理性的な動物たちが神的なものの諸観念を持ち、将来の諸々の事柄についての予知を持ち、それらの事柄を他のものたちに予示するとしよう。そうであれば、ホメロスにおけるスズメは、蛇がそのスズメや雛たちを襲う場所で抱卵することはなかっただろう。同じ詩人における蛇は、鷲に襲われないように用心しただろう。実際、作詞において賞賛すべきホメロスは、前者[1]について次のようなことを言っている:

そこに、大きな兆候が現れた。背中が血のように赤く輝き、

恐ろしい蛇。オリンポスの神がみずから、その蛇を白日の下に到らしめた。

すると、祭壇の如きものが、突然、下から現れ、プラタナスの木に向かってそびえ立った。

そこに、若いスズメたち、生れたばかりの雛たちが、

いちばん高い枝のところで、諸々の葉の下にうずくまっていた。

八羽の雛たち。しかし、九羽目に、それらの雛たちを産んだ母がいた。

そのとき蛇は、鳴き叫ぶ哀れな雛たちを飲み込んだ。

かたや母は、愛らしい雛たちを嘆きながら歩き回っていた。

蛇は身を捩じらせ、鳴き叫ぶ母を翼ごと捕らえた。

しかし、蛇がスズメの雛たちと彼女を食べると、

(蛇を)出現させた神は、著しい印を現した。

すなわち、狡猾なクロノスの子が、蛇を石にした。

私たちは立ち尽くし、この出来事に驚き呆れた。

数々のいかに恐ろしく不吉なことが、神々の数々の生け贄に介入したかと[2]

 後者について[3](ホメロスは次のようなことを言っている)

(溝を)越えようとしていた彼らに、占い鳥が現れた。

高く飛翔する鷲、左手に軍勢をかわしながら。

血のように赤く染まった怪物のような蛇を、かぎ爪で運びながら。

蛇は生きており、まだ喘いでいた。しかし、彼は戦いの喜びを忘れなかった。

彼は、自分をつかんでいた鷲の首下の腹を強打した、

後方に身をよじりながら。彼は鷲から離れ、地に落ちた。

鷲は痛みに苦しみ、(蛇を)軍勢の只中に投げ込んだ。

鷲は、金切り声を上げなら飛んでいった、風に乗りながら。

トロイアの人たちは、震え上がった。彼らの只中に

怪しく輝く蛇を見て。(アテナ神の)楯を持つゼウスのしるし[4]

 してみると、鷲は占い者であると同時に、蛇も、鳥占師たちがこの動物を使っているのであるから、占い者ではなかったのか。恣意的なものを論駁するのは容易であるから、(蛇と鷲の)両者が占い者で得あることをどうして論駁できないのか。実際、蛇が占い者であれば、鷲からの然々の被害を蒙らないように用心したのではないか。人は、他にもこれに類する例――動物たちが自分たち自身の内に占いの霊魂を持っていないことの例――を無数に見出すことができるだろう。しかし、詩人や人々の多くによれば:

オリンポスの神がみずから、(その蛇を)白日の下に到らしめた

のであり、何らかのしるしとして、アポロンが鷹を伝令として使っているのである。すなわち:

アポロンの隼は迅速な伝令[5]

であると言われている[6]


[1] 蛇がスズメやその雛を襲うことをさす。

[2] Homeros, Il.II,308-321; Cicero, De divin.II,30,63-64.

[3] 鷲が蛇を襲うことをさす。

[4] Homeros, Il.XII,200-209; Platon,Ion.,539b-d; Cicero, De divin.I,47,106. これらの引用文は、オリゲネス自身が、原書から独自に抜粋したものというよりも、占いについての論争資料集の中に既にあったと推測するのが自然だろう。

[5] Homeros, Od.XV,526.

[6] 以上は、『ケルソスへの反論』第4巻第91節全体の抜粋である。なお、ホメロスからの引用は、散文体で訳出した。韻文体の邦訳は、適当な邦訳本で確認していただきたい。