続いてケルソスは、「神は万物を人間のためにお造りになったと我々が主張している」という理由で、我々を非難する。そして彼は、諸々の動物に関する報告と、それらの動物に見出される明敏さとから、万物は人間たちのためばかりでなく、他の動物たちのためにも造られたことを証明しようとしている。しかし、彼は、気に食わない者たちへの敵意に駆られ、自分たちのもっとも親しい友人たちの下では賞賛している事柄を、彼らの下では非難している人たちと似たようなことを言っているように、私には思える。実際、彼らの場合、(敵対者たちへの)敵意は、敵対者たちを非難していると思っているのと同じ理由で、もっとも親しい者たちをも非難していることに気づかないほど(彼らを)盲目にしている。同じような仕方でケルソスも、思考が錯乱し、自分が、ストア派の哲学者たちを非難していることに気づかなかった。彼らは、正しくも、人間を、そして一般に理性的本性を、すべての理性的なものどもの上に立たせ、摂理は第一にこの理性的本性のために万物を作ったのだと言っている[1](万物に)優先する諸々の理性的なものは産み落とされた子どもたちのごとくであり、これに対し、諸々の非理性的で魂のないものは子どもとともに生み出された胎盤のごとくである。さらに、私は次のように考えている。すなわち、諸都市において諸々の商品と市場とを配慮する人たちは、他ならぬ人間たちのために配慮し、犬どもや他の理性的なものどもは、あり余ったものを享受するのと同様に、摂理は、先ず諸々の理性的なものを配慮するのであり、その次に、諸々の非理性的なものが、人間たちのために作られた諸々のものを享受することが続いたのである。犬どもも諸々の商人の中からあり余るものを享受するという理由で、市場監督たちが人間たちに優るとも劣らず犬どもを配慮していると言う人は当を得ていないよう。同様にケルソスや、彼と同じことを考える者たちは、次のように主張することによって、諸々の理性的なものを配慮する神に対し、はるかにひどい不敬を働いている――なぜ、それらのものは、木や草や茨などの諸々の植物よりも、人間たちの養いのために作られたのかと[2]



[1] Cf.eg.Cic.,De nat.deor.II,62154(SVF II,1131):「そもそも、世界それ自体は、神々と人間たちのために作られた。世界の内にあるものはすべて、人間たちの利するために供され、見出される。実際、世界は、神々と人間とに共通の家のごときものであり、両者の都である。理性を行使する者たちだけが、正当かつ合法的に生きる」。その点で、オリゲネスの人間観もストア派と同じであると思われる。Cf.Sel.in Ps.(Lomm.XI,383 :SVF II, 1156):「実に、諸々の家畜と大地からおのずから生み出された諸々のものとは、理性的な動物の必要のためにある」。

[2] 本節は、『ケルソスへの反論』第4巻第74節全体の抜粋である。