23 将来の諸々の事柄を予知することが必ずしも神的でないことを知らねばならない。実際、(予知すること)それ自体は、中間的な事柄であり、下賎な人たちにも洗練された人たちにも起こることである。たとえば医者たちは、たとえその品行において下賎な人たちでも、医術によって何らかの事柄を予知する。同様に舵取りたちも、何らかの経験や観察から、周囲の状況に関して、数々の兆候や風の乱れと変化を予知する[1]。そのことを鑑みれば、彼らが品行において邪悪であるとすれば、彼が神的であると人は言わないだろう。したがってケルソスの許で――将来の諸々の事柄を予知し予示することよりも神的なものが何かあると人は言うだろうかと――言われていることは虚偽である。動物たちの多くが神的な諸観念を当然のことく持っているとするのも虚偽である。非理性的な動物たちのどれ一つとして、神の観念を持っていない。非理性的な動物たちが神的な交わりに近いとするのも虚偽である。人間たちの場合でさえ、いまだに下賎な者たちは、たとえ並外れた進歩を示しても、神的な交わりから遠い。結局、真実に賢明で偽りなく敬虔な者たちだけが神的な交わりに近い。我々の許では、預言者たちやモーセがそのような者たちである。み言葉は、モーセについて、その偉大な清浄さのゆえに次のように証ししている。「モーセだけが神の許に近づくことができる。他の人たちは近づいてはならない[2]」と。

 しかし、我々を不敬であるとして非難する者によってどれほど冒涜的な仕方で言われていることか――生き物たちの内で非理性的な動物たちは人間たちの本性よりも賢いばかりでなく神に愛されていると。人間たちの本性よりも、蛇や狐や狼や鷲や鷹の方が神に愛されていると主張する人から、いったい誰が顔を背けないだろうか。ケルソスが次のように言うのは必然である:もしもあれこれの動物たちが人間たちよりも神に愛されているとすれば、ソクラテスよりもプラトンよりも、ピュタゴラスよりもフェレキュドスよりも[3]、少し前のところで彼が賛美した神の語り部たちよりも、それらの動物たちの方が神に愛されているのは明らかであると。もしかすると人は、彼に次のように言って願うだろう:「然々の動物たちが人間たちよりも神に愛されているなら、あなたは、それらの動物たちとともに神に愛される者になってもらいたい。あなたによれば人間たちよりも神に愛されている動物たちに等しい者に、あなたはなってもらいたい」と。しかしケスソスは、そのことを呪いであると憶測すべきではない。なぜなら、いったい誰が、彼がより神に愛されていると確信している者たちにできる限り似た者になり、それらと同様に神に愛される者になりたいと願わないだろうか[4]



[1] 省略

[2] Ex.24,2. 以上は、『ケルソスへの反論』第4巻第96節全体の抜粋である。

[3] Cf.C.Cels3e,IV,89.

[4] この段落(本節後半)は、『ケルソスへの反論』第4巻第97節の前半の抜粋である。その後半は、次節で抜粋される。