24 非理性的な動物たちの諸々の会話は、我々の諸々の会話よりも神聖であることを主張しようとするケルソスは、以上の話を、ありふれた人たちにではなく、理解力のある人たちに帰している。しかし、(徳において)卓越した人たちが、真の意味で理解力のある人たちである。確かに、劣悪な人たちは誰一人として、理解力のある人ではない。彼は、次のような言い方をする――人間たちの内でも理解力のある人たちは、それらの(動物たちの)内にも諸々の会話があり、明らかに我々のよりも神聖であると主張する。彼らは、(それらの動物たちの間で)語られている諸々の事柄を知ることができるのであり、自分たちが知らないわけではないこと実際に証明することができると主張している。すなわち彼らは、占い鳥たちが然々の所に行って、然々の事柄を行なうつもりだと語り合っていたと、あらかじめ言い、(実際に)そこへ行って、(占い鳥たちが)行なうと既に予言していた諸々の事柄を行なう、と。しかしながら、真実には、理解力のある人は誰も、そのようなことを語らなかった。知恵ある者は誰も、非理性的な動物たちの諸々の会話が人間たちの会話よりも神聖であると言わなかった。もしも我々が、ケルソスの諸々の主張を吟味するために、(そこから導き出される)結論を考慮するなら、彼の意見に従えば、威厳ある人たち――フェレキュドスやピュタゴラスやソクラテスやプラトンや(その他の)哲学者たち――の諸々の会話よりも、非理性的な動物たちの会話の方が神聖であるのは、明らかである。これは、それ自体で、あり得ないばかりでなく、ばかげている。ある人たちが、占い鳥たちがどこかへ行き、然々の事柄を行なうだろということを、占い鳥たちの不明瞭な声から学び、それをあらかじめ告げるのだと、もしも我々が信じるなら、それは、悪霊たちによって象徴的に人間たちに示されたと我々は言うだろう。しかし、悪霊たちのもくろみは、人間が悪霊たちによって欺かれ、その思いを天と神とから、地上と、さらに低い諸々の事柄へと引き下ろすことである[1]



[1] 本節は、『ケルソスへの反論』第4巻第97節の後半の抜粋である。その前半は、前節で抜粋された。