25 どのようにしてケルソスが、さらに象たちの誓いについての話も聞き知り、それらが我々よりも神に忠実であり、神の認識を持っていることを知ったのか、私は知らない。私の方は、その生物の本性と従順さについて、多くの賞賛すべき事柄が物語られているのを知っているが、象の諸々の誓いについては、誰かの許で何ごとかが話されているのを聞いた覚えがない――人間たちに服従した後の象たちの従順さと、彼らへのいわば契りのごときものを、私が、遵守された誓いと呼ぶのでなければ。しかし、そのこと自体も虚偽である。まれなことであるとしても、次のことが報告されている。すなわち、象たちが一見して従順になった後に、人間たちに対して獰猛になり、数々の殺戮を行い、そのために断罪され、もはや無用なものとして排除されることになったと。

次に彼は、コウノトリたちが人間たちよりも忠節であること――そう彼は思っている――を証明するために、その動物について報告されている諸々の事柄、すなわち、それらが産みの親たちを大切にし、数々の糧を奉げていることを取り上げている。そこで、次のように言わなければならない。コウノトリたちは、義務をめぐる考察によって、そのことを行なうのでもなく、理性的に思慮して行なうのでもなく、自然本性によって行なうのであると。なぜなら、それらをもたらした自然は、産みの親たちに感謝すべきことについて人間たちを恥じ入らせることができる範例が、非理性的な動物たちの内に露になるようにしているからである。もしもケルソスが、理性によってそれらのことを為すことが、非理性的かつ自然本性的にそれらのことを働くのこととどれほど異なっているかを知っていたなら、コウノトリたちが人間たちよりも忠節であるとは言わなかっただろう。

 さらに彼は、非理性的な動物たちの忠節を支持するために、次のことを取り上げている。すなわち、アラビアの動物である不死鳥は、何年間もエジプトに留まった後、亡くなった父親を担ぎ、没薬の球の内に埋葬し、太陽の聖所のある所に安置したと。確かにそのことも、報告されている。しかし、それが真実であるとしても、そのことも自然本性的に起こり得ることである。物惜しみしない神的な摂理は、動物たちの諸々の違いによって、占い鳥に至るまでのこの世にいる動物たちの生態の多様性を、人間たちに示そうとしている。そして自然は、何かしら独特な動物[1]を実在させたが、それは、そのことによってその動物が賞賛されるようにするためではなく、むしろ、それを造った方が賞賛されるようにするためである[2]



[1] 不死鳥をさす。

[2] 本節は、『ケルソスへの反論』第4巻第98節全体の抜粋である。