26 以上のすべての事柄に加えて、ケルソスは次のように言っている。「したがって、人間のために、すべてのものは造られたのではない――獅子や鷲や海豚のために造られたのでないのと同様に。かえってそれは、この世が、その隅々に至るまで神の完全無欠な作品として現れるようになるためである。この世界のために、万物は配置されている。しかし万物は、付随的である場合を除いて、その諸部分の相互のために配置されているのではなく、全体のために配置されている。実に神は、全体を配慮する。摂理は、決して全体を見捨てない。全体が悪化することもない。神が一定の期間を経て、(全体を)ご自身の方に向け変えるのでもない。神は、人間たちのために憤ることもない――猿たちや鼠たちのゆえに憤らないように。神は、それらを脅かすこともない。それらのものは、それぞれ、各自の運命を引き受けている」と。ここで我々は、手短にではあるが、以上のことに対応することにしよう。私は、これまでに述べられたことから、万物が人間やすべての理性的な者のために造られていることが承認されていると思う。たしかに万物は、第一に理性的な動物のために作られている。だからケルソスには、万物は人間のためにも、獅子や、彼が名を挙げている動物たちのためにも作られたのではないと言わせておこう。我々は、次のように言う。創造主は、獅子のためにも鷲のためにも海豚のためにも、それらの万物を造ったのではなく、理性的なもののために万物を造った。しかもそれは、「この世界が、その隅々に至るまで神の完全無欠な作品として現れるためである」と。このことにこそ、見事な言説として同意しなければならない。神は、ケルソスが考えるように、全体だけを配慮しているのではなく、全体にもまして、一切の理性的な者を優先的に配慮している。それでいて「摂理は、決して全体を見捨てない」。実際、(神は)、罪を犯した理性的なもののゆえに、全体の或る一部が悪化しても、その浄化を図り、「一定の期間を経てから全体をご自分の方に向け変える」ように取り計らう。(神は)、「猿たちや鼠たちのゆえに憤らない」。しかし、自然本性的な諸々の衝動によって過ちを犯した人間たちに対して、裁きと諸々の懲らしめを加え、預言者たちを通して、人類全体の許に訪れた救い主を通して彼らを脅かす。それは、脅かしを通して、聞き従う者たちが回心するためであり、回心を促す諸々の言葉をなおざりにした者たちが諸々の裁きを(各自に)相応しく受けるためである。神が、万物の利益を図るご自分の意思に従って、苦痛を伴う癒しと矯正を必要とするそのような者たちに、それらの裁きを科すことは適切である。

 しかし、第四巻の論述は十分になされたので、我々はこのあたりでその議論を止めることにする。どうか神が、神であるみ言葉、知恵、真理、正義であり、神聖な諸文書が神学的に語っている一切であるご自分の息子を通して、読者の人たちの利益のために我々が第五巻を始めさせてくださいますように。彼のみ言葉が我々の魂に留まり、我々が立派にこの巻を完結できますように[1]



[1] 本節は、『ケルソスへの反論』第4巻第99節全体の抜粋である。