第一に彼は、諸々の雷鳴や稲妻や雨は、神の諸々の業ではないと考えており、エピクロス風に考えていることは明らかである。第二に彼は、次のように言っている。たとえ人がそれらは神の諸々の業であると認めても[1]、それらは、我々人間たちに優るとも劣らず、木や草や茨などの諸々の植物のためにも、その養いとして作られたと。彼はこのように言うことによって、真の意味でのエピクロス派として、それらの事柄が摂理に従ってではなく、偶然に生じることを認めているのである[2]。実際、もしも我々に優るとも劣らず、木や草や茨などの植物のためにも、それらが有益であるとすれば、それらの事柄が摂理によって将来するのではないこと、あるいは摂理によるとしても、我々に優るとも劣らず木や草や茨をも配慮する摂理によって将来するのは、明らかである。このいずれも、すでにそれ自体で不敬である。また、我々を不敬のゆえに非難する者(ケルソス)に立ち向かうために、それらに反論するのも浅はかである。なぜなら、誰が不敬虔なのかは、上述の諸々の事柄から何人にも明らかだからである。

 続いて(ケルソスは)、次のように言う。「たとえあなたが、それらのものは――明らかに、木や草や茨などの諸々の植物のことである――人間たちのために生じると言ったとしても、それらのものは、野生極まりない非理性的な動物たちよりも人間たちのために生じると、どうしてあなたは言うだろうか」と。だからケルソスは、次のことをはっきり断言すべきである。すなわち、地上に生じる諸々の植物のこれほどの多様性は、摂理の業ではない。諸原子の何らかの偶然の結合が、これほど多様な諸性質を作り出した。(諸原子の)偶然の結合によって、木や草などの諸々の植物のこれほど多くの種は、互いに似かよっている。いかなる技巧的な理拠[3]もそれらを実在させなかった。また(それらは)、一切の賞賛を超えた精神に始元を持っているのでもない、と。しかし、それらのものをお造りなった神だけに依りすがる我々キリスト者たちは、まさにそれらのもののゆえに、それらのものの創造主に感謝の念を抱いている。なぜなら創造主は、我々のために、そして我々のゆえに我々に仕える動物たちのために、このような(大地という)住処を準備して下ったからである。「(主は)諸々の家畜のために牧草を生え出ださせ、人間たちへの奉仕のために若芽を生え出ださせ、人間たちが大地からパンを引き出すことができるようにした。それは、ブドウ酒が人間の心を喜ばせ、オリーブ油で顔が輝き、パンが人間の心を強めるため[4]」とある。(創造主)は、動物たちの中でももっとも野性的なものたちのためにも、諸々の食べ物を準備してくださったとしても、まったく驚くに値しない。というのも、それらの動物たちでさえ、理性的な動物のための訓練のために作られたと、他の哲学者たちも言っているからである[5]。我等の方の賢者たちの一人も、どこかで次のように言っていた。「それは何であるか、それは何のためにあるかと、あなたは言ってはならない。なぜなら(主は)すべてのものを、すべての必要のためにお造りになったからである」。「それは何であるか、それは何のためにあるかと、あなたは言ってはならない。なぜなら(主は)すべてのものは、それぞれの好機に捜し求められるだろうから[6]」。



[1] Cf.Cic.De nat.deor.I,2,4:「実際、諸々の果実も、大地が生み出すその他の諸々のもの、諸々の気候も、時間のさまざまな変化も、天の諸々の動きも・・・不死の神々によって人類に与えられた」。

[2] Cf.Lac.,Divin.instit.,II,17:「それらのもの(諸々の雨や諸々の果実や樹木)は、生き物たちのために作られたのではない。なぜならそれらのものは、摂理にまったく役立たないからである。むしろすべてのものは、自発的に成ったのである。・・・摂理は必要ない。すなわち、諸々の種子が、空虚に飛び回っている。それらが互いに偶然に集ることによって、宇宙万物は生まれ、形を成す」。

[3] lo,goj tecniko.n

[4] Ps.103,14-15.

[5] Cf.Contra Celsum.IV,78.

[6] Sr.39,21.17. なお、本節は、『ケルソスへの反論』第4巻第75節全体の抜粋である。