これらに続けてケルソスは、摂理が、地上に生じた諸々のものを、私たちのためばかりでなく、動物たちの中でももっとも野性的なものたちのためにも作ったことを示そうとして、次のように言っている。「我々は、苦労を重ね、辛抱しつつ、困難と労苦に耐えながらみずからを養っている。しかしそれらの動物たちのために、『すべてのものが、種をまくことも耕すこともなく、生じている[1]』」。ケルソスは次のことが分かっていない。すなわち神は、人間の知性があらゆる場合に鍛えられ、無為に過ごして諸々の技術を考案しないということのないように望み、窮乏した人間を作った。それは、人間の窮乏それ自体によって、人間が、諸々の技術――養いのための諸技術や防護のための諸技術――を見出すように強いられるためである[2]。実際、諸々の神的な事柄の探求と哲学に着手しそうにない人たちにとって、富裕であることから知性をまったく省みないよりも、困窮し知性を行使して諸々の技術を発見に努める方がよい。実際、生活のための諸々の必需品の困窮は、一方で耕作術、他方でブドウ栽培術、一方で諸々の果実に関する諸技術、他方で木工術と冶金術――これらは、糧を得るための諸技術に仕える諸々の道具を製作する――を成立させた。また、防御の困窮は、一方で 梳毛 ( そもう ) [3]と紡績術の後の機織術、他方で家屋建設術をもたらした。同様に知性は、建築術一般にも向かった[4]。諸々の必需品の窮乏は、他の諸地方で生じた諸々の産物が、航海術と操舵術とによって、それらの産物を持っていない諸地方へ運ばれるようにした。それゆえ人は、諸々の非理性的な動物にもまして理性的な動物の便宜を図り、これを窮乏するものとして作った摂理に驚嘆するだろう。実際、諸々の非理性的な動物には、諸技術へ向かう適性さえ持たないため、糧がすでに準備されており、自然本性的な防護がある。それらは、あるいは毛で覆われ、あるいは翼があり、あるいは鱗で覆われ、あるいは殻に包まれている[5]



[1] Homer., Od., IX,109.

[2] Platon, Protagoras 320A – 322D.

[3] 羊毛を刈り取る技術。

[4] 訳者は、oivkodomikh, avrcitektonikh, をそれぞれ「家屋建設術」、「建築術一般」と訳した。

[5] 本節は、『ケルソスへの反論』第4巻第76節からの抜粋であるが、『ケルソスへの反論』には、次の結びがこの抜粋に続いている。それを訳出すると:

ケルソス(の著作)において次のように主張する言葉の弁明として、以上のことが我々によって言われたとしよう――「我々は、苦労を重ね、辛抱しつつ、困難と労苦に耐えながらみずからを養っている。しかしそれらの動物たちのために、『すべてのものが、種をまくことも耕すこともなく、生じている』」と。