これに続けて(ケルソスは)、人間たちのために言われた数々の事柄、すなわち彼らのために非理性的な動物たちは造られたということに反論し、さらに次のようにも言っている。「もしも誰かが、我々は非理性的な動物たちを捕まえて調理するのであるから、非理性的な動物たちを支配していると言うのなら、我々は言うだろう。むしろ我々がそれらの動物のために作られたのではないか。なぜならそれらの動物、は我々を捕まえ貪り食うのであるからである。そればかりか、我々には、諸々の網や数々の武器、多くの人々の助け、数々の獲物を捕まえるための諸々の犬が必要である。ところが自然は、それら(の非理性的な動物)に、直ちに諸々の武器を与え、我々をそれら(の動物)の支配下に置いたと」。あなたはここでも、知性はどのようにして、野獣たちが持っているあらゆる武器に勝る大きな助けを我々に与えたかを了解するだろう。確かに我々は、身体の点で多くの動物よりも弱く、幾つかの動物に比べて圧倒的に小さいが、知性によって諸々の野獣に勝っており、巨大な象たちを捕まえる。また我々は、飼い馴らされるように生まれついた動物たちを調教によって従える[1]。しかし、そのように生まれついていない動物たちや、調教によって我々に必要なものをもたらすようには見えない動物たちに対して、我々は自分たちの身の安全を図り、我々が望めば、そのような野獣たちを閉じ込めておき、我々がそれらの身体からの糧を必要とするとき、――獰猛でない動物たちと同様に――それらを処分する。したがって創造主は、すべての動物を、理性的動物とその知性に服従するものとした。我々は、何らかの諸目的のために、たとえば羊たちや牛たちや山羊たちや家の者たちを守るために、犬たちを必要とする[2]。あるいは他の諸目的のために、たとえば耕作のために、我々は諸々の牛を必要とし、また他の諸目的のために、頚木をつけた動物たちや荷運び用の動物たちを我々は必要とする。さらに、我々の内にある勇気に属する諸々の素質の練磨のために、ライオンたちや熊たちや豹たちや猪たちやその他のそれらに類する動物たちが我々に与えられたと言われている[3]



[1] Cf.Cic.,De nat.deor.,II,60,151:「我々は、四足獣を調教することによって荷運び用の動物をつくる。それらの動物の速さと力は、我々自身に力と速さをもたらす。我々は諸々の荷物を或る獣たちに背負わせ、諸々の頚木を課す。我々は、象たちの諸々の敏感極まりない感覚や犬たちの賢さを、我々の利益のために使う」。

[2] Cf.Cic.,De nat.deor.,II,63,158:「犬たちのかくも信頼すべき警戒、かくも愛らしい飼い主たちの慰め、外来者に対するかくも大きな敵意、捜索する際の嗅覚のかくも信じがたい敏感さ、狩猟をする際のかような迅速さ、これは、人間たちの便益のために生み出されたものでないとすれば、何を意味するのか」。

[3] Cf.Cic.,De nat.deor.II,64,161:「巨大で獰猛な獣たちを我々は、狩によって捕らえ、それらを食する。しかし、狩猟によって我々は、戦闘の訓練にならって鍛えられもし、飼い馴らし調教することによって、たとえば象(などの獣)を利用することもあろう」。オリゲネスにとって、ストア派の説に依拠することに困難はなかっただろう。オリゲネス自身はここで言明しているわけではないが、その可能な論拠は、「自然は神によって作られた」ということだろう。なお本節は、『ケルソスへの反論』第4巻78節全体の抜粋である。