次に(ケルソスは)、自分たちが非理性的な動物たちよりも卓越していることを自覚している人類に対し、次のように言っている。「神は諸々の獣を捕まえ利用する能力を我々に与えたと、あなた方が言っていることに対して、我々は次のように言いたい。諸々の都市や諸技術やそのような関わり[1]や諸々の道具や諸々の網が存在する以前は、当然のことながら人間たちは、諸々の獣によって強奪され食われたのであって、獣たちが人間たちに捕まることは少しもなかっただろう」と。これに対してあなたは、次のことをお考えください。たとえ人間たちが諸々の獣を捕まえようと、諸々の獣が人間たちを強奪しようと、獣たちから害を受けないために知性を行使しない人間たち対し獰猛さと残忍さにおいて勝る獣たちと、知性を行使する人間たちとの間には大きな違いがあることを。さらに、「諸々の都市や諸技術やそのような関わりが存在する以前」のという言葉は、以前に述べた諸々の事柄を忘れてしまった人の言葉であると、私は思っている。すなわち(ケルソスは以前、次のように言っていた)、「世界は造られざるものであり不滅のものであるから、地上にあるものだけが諸々の洪水と大火を蒙ったのであり、すべてが同時にそれらに襲われたわけではない」と。したがって、造られざる世界を提案する人たちにとって世界の始めを言うことはできないのと同様に、諸々の都市も諸技術もまったく存在しなかった時を、その人たちは見出すことはできないだろう。しかし彼は、それらの点に関して我々に同意すべきである――それが彼の意にそわないことであり、彼が以前に述べた諸々の事柄ともはや一致しないとしても。そすると、なぜ、そのことが、そもそもの始めにおいて人間たちが諸々の獣によって連れ去れて食われるのあって、諸々の獣はまだ人間たちによって捕らえられていなかったとする説に資するのか。実際、世界が摂理に従って造られたとし、神がすべてのものに立ち会っているとするなら、人類の数々の火花[2]は、その始めから、(獰猛さと残忍さにおいて)勝る諸々の動物たちからの保護の下に造られたのは必然である。したがって、(世界の)始めにおいて、人間たちに対する神的な本性の関わりが存在したとしなければならない。それは、アスクラの詩人も気づいており、次のように言っている。

かつて数々の共通の祝宴がありぬ。数々の共通の集いがありけり。

不死の神々と死すべき人間たちとの間に[3]



[1] 本節の最後尾に同じ語が出てくる。それによれば、その交流は、「人間たちへの神的な本性の関わり」である。

[2] 省略

[3] Hesiode, fragm.82 (216), ed.Rzach. なお、ヘシオドスの『神統記』には、一見すると創世記の創造論に似た創造論が述べられている:「まず初めにカオス(混沌)が生まれた。つづいて広大な胸をもつガイア(大地、女神)が、すなわち、雪を戴くオリュンポスの頂きに住まう八百万の神々の、永遠に揺ぎない御座たるガイアが生まれた・・・」(神統記116以下)とある。なお本節は、『ケルソスへの反論』第4巻79節全体の抜粋である。