しかし、この高貴な人は、実に多くの哲学者たちが摂理を認め、その摂理が万物を理性的動物たちのために作ったと言っているのを知りながら、それらの事柄におけるキリスト者たちと哲学者たちとの一致にとって有益な教説を力の限りを尽くして破壊しようとしている。さらに彼は、神の許では、人間は蟻たちや蜂たちと少しも違わないと認めることによって、敬神にとってどれほど大きな障害が生じるかも分からずに、次のように言っている。すなわち、人間たちが、諸都市を建設し統治や諸権威や諸指令を行っているがゆえに、非理性的動物たちに優っているように見えるとしても、それは一言にも値しない。なぜなら蟻たちや蜂たちも(同じことを行っている)。疑いもなく蜂たちには支配者がおり、介助、配慮、諸々の戦い、諸々の勝利、敗北者たちの数々の処分、諸都市、数々の場外都市、諸々の業の継承、不労者たちと悪人たちとに対する数々の罰がある。少なくとも蜂たちは、働かない蜂たちを追い出し、懲らしめる。これらの事柄においても彼は、理性と思慮とによって成し遂げられる諸々の事柄が、どのような点で、非理性的な自然本性と単純な仕組みとから生じる諸々の事柄よりも優っているかが分かっていない。後者の事柄の原因を、それらを行う蜂たちに内在するいかなる理性も受け入れない。彼らには理性さえない。むしろ、神のもっとも尊い御子、すべての実在者たちの王が、非理性的な自然本性を作り、これが非理性的でありながら、理性に値しない諸々の実在者たちを助けるようにしたのである[1]

 さて、諸都市は、人間たちの許では、多くの技術と統治のための数々の法律とともに成り立っている。人間たちにおける諸々の統治や諸権威や諸指令は、厳密な意味では、そのように呼ばれる何らかの数々の秀でた慣わしと働きをさすか、より広い転用的な意味では、それらを可能な限り模倣している度合いに応じて、そのように名づけられているかのいずれかである[2]。それらを見習いながら運よく法律を制定した人たちは、最善の諸々の統治と諸権威と諸指令を作り上げた。非理性的な動物たちの中には、そのようなものを何一つ見出すことはできない――たとえケルソスが、都市や数々の統治や諸権威や諸指令に適用される数々の理性的な名称を、蟻たちや蜂たちにも当てはめても。それらの点において蟻たちや蜂たちを決して是認すべきではない。なぜならそれらは、思慮を持ってそれらを行使するわけではないからである。むしろ神的な本性を賞賛すべきである。なぜなら神的な本性は、おそらく理性的な動物たちを恥じ入らせるために、諸々の理性的な事柄のいわば模造品を非理性的な動物たちにまで広げたからである。それは、理性的な動物たちが、蟻たちを見習うことによって、いっそう勤勉となり、自分たちにとって有益な事柄の数々をいっそうよく遣り繰りするようになるためであり、蜂たちのことを考えては、諸指令に従い、諸都市の安全のために有益な統治上のさまざまな業を分担するようになるためである[3]



[1] オリゲネスは、しばしばストア派の学説を仮説として採用するが、自然本性(フュシス)はそれ自体では非理性的なものと見なすことによって(fu,sij a;logoj)、ストア派との立場の違いを表明している。

[2] 省略

[3] 本節は、『ケルソスへの反論』第4巻81節全体の抜粋である。