おそらく、蜂たちの数々の戦いの如きものも、人間たちの間で正当で統制の取れた諸々の戦いが――もしもその必要があれば――行われるための教訓としてあるだろう[1]。また、蜂たちには、諸都市も諸々の城外都市もない。しかし、諸々の蜂の巣や六角形の育房、蜂たちの諸々の業や彼らの許でのそれらの継承、多くの用途のために蜂蜜を必要とする人間たちにとって、痛手を受けた諸々の身体の癒しとなり、清い糧となる。しかし、働かない蜂たちに対して他の蜂たちが科す諸々の事柄を、諸都市における不労者たちと悪人たちとに対する諸々の罰や彼らに対する数々の懲らしめと同列に置くべきではない。むしろ、既に私が述べたように[2]、それらの事柄においては、自然本性に驚嘆すべきである。そして、万事を推し量り万事を処理することのできる人間が、摂理に協働する限りで、神の予知に基づく諸々の業ばかりでなく、みずからの予知に基づく諸々の業も成し遂げることを認めるべきである[3]



[1] オリゲネスは、正当な理由で行われる秩序ある戦いを容認している。.

[2] Contra Celsum,IV,81(Philoc.,XX,8).

[3] 本節は、『ケルソスへの反論』第4巻82節全体の抜粋である。