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自由意志について――それを否定するように見える聖文書の諸々の言葉の分析と解釈[1]

 教会の宣教の中には、神の正しい裁きについての教えが含まれている。更にそれは、聞いて真実であると確信する人たちをして、正しく生活し、あらゆる仕方で罪を避けるように促している。彼らは明らかに、推奨と非難に値する諸々の事柄が我々にかかっていることに同意している。そこで我々は、自由意志に関する諸々の事柄も、もっとも切迫する問題の一つとして、わずかではあるが別個に取り上げることにする。

 ところで、自由意志とは何であるかを我々が理解するために、その観念を解明する必要がある。その観念が明らかにされれば、探求される事柄は正確に提示されるだろう。

諸々の動かされるものの内、或るものは それ自身の内に運動の原因を持っている。他の或るものは外部からのみ動かされる。運搬されるものだけが外部から動かされる。たとえば木材や石、組成だけで維持される物質がそれである。差し当たり、諸々の物体の流動を運動であると言うことを議論から除外すべきである。なぜならそれは、目下の課題に必要ないからである。これに対し、諸々の動物と植物、要するに自然本性と魂とによって維持されるすべてのものは、それ自身の内に動かされることの原因を持っている。諸々の鉱石がそれらに含まれると人々は言う[2]。それらに加えて、火も自動的である。おそらく諸々の泉もそうであろう。みずからの内に動かされることの原因を持つものの内に、おのずから動かされるものと、みずから動かされるものがあると人々は言う[3]。魂のないものが、おのずから動かされるものである。魂のあるものが、みずから動かされるものである。魂のあるものがみずから動かされるのは、衝動を喚起する諸表象が内部に生じるからである。また、諸々の生物の内の或るものたちの内では、衝動を喚起する諸表象が生じるが、表象にかかわる本性は、一定の秩序に従って衝動を引き起こしている。たとえばクモの内に、網を作る表象が生じ、網を作る衝動が続く。表象にかかわるクモの本性は、一定の秩序に従って網を作るようにとクモを促している。この動物の表象にかかわる本性の他に考えられるものは何もない。蜜蝋を作る蜂についても同様に考えられる。



[1] 本章は、『諸原理について』第3巻第1章全体の抜粋である。本章は、ギリシア語原文で抜粋されているとしても、『フィロカリア』が作成された時点での正統的教義の観点からの「修正」があることは否定できない。

[2] 磁力を持つ金属のことだろう。

[3] 「おのずから動かされるもの」(evx e`autw/n):たとえば植物。「みずから動くもの」(avfVe`autw/n):たとえば動物。それらはストア派の分類によると思われる。