10 太陽が声を発し――溶かされることと乾かされることが正反対であるにもかかわらず――「私は溶かし、また、乾かす」と言ったとしても、基体に対して嘘を言ったことにならない。なぜなら同じ熱さから、蝋は溶かされ、泥は乾かされるからである。それと同じように、同じ働き、モーセを通して生まれる同じ働きが、ファラオの心の固くなさを責め、ヘブライ人たちに混じって一緒に出立したエジプト人たち[1]の従順を認証した。また、ファラオの心がいわば少しずつ柔らかくされ、次のように言ったと書き記されていること、すなわち、「しかしあなた方は、遠くに行ってはならない。あなた方は三日の間、歩きなさい。ただし、あなた方は、あなた方の婦人たちを置いて行きなさい」と言い、諸々の不思議な事柄に少しずつ屈服してその他のことも言ったと書き記されているのも[2]、諸々のしるしが彼に対して何らかの働きをし、一切を全うしなかったことを明示している。それらの事柄は起こりもしなかっただろう――もしも、多くの人たちによって了解されていることが、すなわち、「私はファラオの心を固くする[3]」ということが、彼によって、すなわち神によって実現されなかったなら。

 ここで、以上の諸々の事柄を慣例に従って穏やかに表現しても[4]、場違いにはならないだろう。すなわち、優しい支配人たちは、優しさと寛大さによって駄目にされてしまった僕たちに、しばしば次のように言い張る:「私が、あなた方を邪悪にしてしまった。それほど多くの罪の原因は、私にある」と。言われている言葉の慣用法と含意をわきまえるべきである。また、言葉の意図を聞き分けずに、(支配人たちを)中傷すべきではない。実にパウロは、それらの事柄を明瞭に吟味して、罪を犯した人に次にように言っている。「それともあなたは、彼の優しさと忍耐と寛大さとの豊かさを蔑ろにするのですか――神の優しさはあなたを改心に導くことも知らずに。あなたは、あなたの固くなさと改心しない心に応じて、神の怒りと啓示と正しい裁きとの日における怒りを、あなた自身のために蓄えています[5]」。罪を犯した人に使徒が言っている諸々の事柄は、ファラオに対して言われるべきである。それらの事柄は、彼に対してちょうどうまく当てはまるように告げられていると理解されよう。なぜなら彼は、自分の固くなさと悔い改めない心に応じて怒りを自分自身のために蓄えているからである。しかし、諸々のしるしが生じなかったなら、あるいは生じたとしても、それほど大きな数多くのしるしが生じなかったなら、その固くなさはそのようには責められず、明らかになることもなかっただろう。



[1] Cf.Ex.12,38.

[2] Cf.Ex.10,7-11.

[3] Ex.4,21.

[4] さらに直訳すると、「以上の諸々の事柄を慣例から和らげても、場違いにはならないだろう」となる。それによって、「比喩的に表現してみると」ということが意味されている。

[5] Rm.2,4-5.