11 しかし、そのような諸々の解釈は信じがたく、強引であると思われている。そこで我々は、預言の言葉からも考察することにしよう――神の大きな優しさを体験し、美しく生活したが、後に罪を犯した人々が何と言っているか。「主よ、なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷わせたのですか。何のためにあなたは、私たちの心を固くし、あなたの名前を畏れないようにさせたのですか。あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である諸部族のために立ち返り、私たちがあなたの聖なる山の幾らかを嗣業できるようにしてください[1]」。『エレミア書』にも:「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は、欺かれました。あなたは強く、力がありました[2]」とある。さて、「何のためにあなたは、私たちの心を固くし、あなたの名前を畏れないようにさせたのですか」という言葉は、憐れみを掛けてくれるように求めた人たちによって言われたものだが、品行に関して言われているとすると、次のようなことを意味している。すなわち、何のためにあなたは、私たちをこれほどまでに見逃し、諸々の罪のゆえに私たち監視しなかったのか。むしろ我々の数々の失敗がこれほどの大きさになるまで放置したのは、なぜかと。(神は)、より多くの人たちを懲らしめずに放置する。それは、各自の諸々の品行が自由意志に基づいて吟味されるためであり、降り掛かる試練によって一層善良な人々が明らかになるためであり、他方、神に察知されないことはなくとも――なぜなら神はすべてのものを、それらの発生前に知っているからである――、諸々の理性的存在者たちや自分たち自身にも察知されない他の人たちが、後に癒しの道を見出すためである。彼らは、自分たち自身を断罪しなかったなら、(神の)善き働きを知ることはなかっただろう。そのことは、各自に有益である。なぜならそれによって各人は、各自の独自性[3]と神の恵みに気づくことができるからである。自分自身の弱さと神的な恵みに気づかない人は、たとえ善き働きを受けても、みずからを試練に掛けたこともなく、みずからを断罪したこともないのだから、天来の恵みによって自分に提供された有徳の働きを自分自身によるものと考えるだろう。それは、自惚れと高慢をもたらし、転落の原因となろう。実にそのことが、悪魔についても起こったと我々は考えている。なぜなら悪魔は、非の打ちどころがなかったときに持っていた数々の利点をみずからに帰したからである。実際、「みずからを高める者は皆、低くされる――、みずからを低くする者が皆、高められるように[4]」。それゆえに「知恵ある者たちと理解力ある者たちとから、諸々の神的な事柄は隠されている[5]」と、考えるべきである。それは、使徒が言っている通りである:「それは、すべての肉が神の前で誇らないようにするためである[6]」。「それらのことは、幼子たちに開示されました[7]」。彼らは、幼児期を終えて一層すぐれた諸々の事柄に到達した幼子たちであり、自分たちがそのような最高の至福に到達したのは自分たち自身の原因によるというよりも、言語を絶した善き働きによるのだと思い当たった幼子たちである。



[1] Is.63,17-18.

[2] Jr.20,7.

[3] h` ivdio,thj th/j e`autou/現代風に訳せば、「各自のアイデンティティ」となる。「自分自身の何たるか」と訳してもよいか。

[4] Lc.14,11.

[5] Lc.10,21.

[6] 1Co.1,29.

[7] Lc.10.21.