.

 

13 我々は、福音からも同様の例えを引こう。若干の土が表面を覆う岩がある。そこに諸々の種が落ちて、すぐに花が咲く。しかし開花するとはいえ、根を張っていないため、太陽が昇ると、萎れ干からびる[1]。まさにその岩は、怠惰によって固くなり、悪徳によって石となった人間の魂そのものである。なぜなら石のような心は、誰に対しても、神によって造られたものではなく、むしろ、邪悪さによってそのようになったからである。もしもある人が――他の岩のような土地が諸々の種を受け、花を咲かせたのを見て――岩のような土地に諸々の種をより早く蒔かなかったとして耕作者を責めるなら、その耕作者はこう答えるだろう:「私は、諸々の蒔かれた種を妨げ得る諸々のものを投げ捨ててから[2]、その土地に一層遅く種を蒔く。なぜなら、より速く表面的に(諸々の種を)受けた土地に比べ、より遅く確実な方が、この土地にとってよいにちがいないからである」と答えるだろう。我々は、その耕作者は理にかなった発言をし、賢明に対処したと確信するだろう。同様に、一切の自然本性の偉大な耕作者も、善行が表面的にならないようにするために、時期尚早と思われた善行を遅延させる場合がある。しかしそれに対し、ある人は我々に次のように言葉を返すかもしれない[3]:「しかしなぜ、諸々の種の中には、表面にしか土を持たない岩のような魂に落ちるものがあるのか」と[4]。それに対して、次のように言われねばならない:諸々の優れた事柄を誰よりも切望していながら、得ようと望んでいるそれらの事柄への道を歩んでいない魂にとっては、それは一層望ましいことである――その点に関して自分を責めるに至り、自然本性に即した耕作を多くの時間を経た後に受けることを忍耐強く望むようになるために。

 実に我々にとって――おそらく人が言うように――諸々の魂は数限りなく、それらの魂の諸々の品行も限りなく、諸々の動きも、諸々の意図も、諸々の目論見も、諸々の衝動も、多いこと極まりない。しかし、それらのもののもっとも優れた唯一の管理者であり、諸々の好機と適切な諸援助と諸々の手引きと道の数々を知っているのは、万物の神である父である。彼は、あれほど多くの事柄や水没を通してどのようにファラオを導くかさえ知っている。ファラオの管理は、その水没に至って終わるのではない。なぜなら彼が滅ぼされたのは、海に呑まれたからではないからである。「実際、私たちも、私たちの諸々の言葉も、すべての思慮も、諸々の仕事の知識も、神の手の内にある[5]」。以上のことは、「ファラオの心が固くされた[6]」という言葉、ならびに、(神はご自分の)望む人を憐れみ、(ご自分の)望む人を固くします[7]」という言葉に関する弁明のために、過不足なく述べてみたものである。



[1] Cf.Mt.13,5-6.

[2] Cf.Ez.11,19.

[3] 前後の詳細な議論から推して、オリゲネスが主催する要理教育学校での問答を反映していると思われる。

[4] Cf.Mt.13,5.

[5] Sg.7,16.

[6] Ex.10,20.

[7] Rm.9,19.