14 我々は、エゼキエルからの言葉も考察してみよう。彼は、次のように言う:「私は、彼らから諸々の意志の石の心を取り除き、諸々の肉の心を入れる。それは彼らが、私が義とする諸々の事柄の内に歩み、私の諸々の定めを守れるようにするためである[1]」。もしも神が、諸々の石の心を取り除き、諸々の肉の心を入れることを望み、彼の諸々の定めが守られ、諸々の掟が遵守されるようにするのなら、悪弊の廃棄は我々には依存しない。なぜなら、諸々の石の心の除去は、神が望む人から悪弊が――この悪弊によって人は固くなる――除去されることに他ならないからである。また、肉の心がもたらされ、人が神の諸々の定めの内に歩み、神の諸々の掟を守れるようになるのは、(人が)従順になり、真理に対して頑なにならず、諸々の徳を実践する人になること以外の何であろうか。しかし、もしも神がそれらのことを行なうと約束するのであれば、神が諸々の石の心を取り除くまでは、我々はそれらの心を廃棄することはできないのであるから、悪弊の廃棄が我々に依存しないのは明らかである。我々の内に肉の心が生じさせるために我々が何ごとかを為すのではなく、むしろそれは神の業であるとすれば、徳に従って生活することは、我々の業ではなく、全面的に神の恩恵であるということになろう。

 諸々の露出した言葉から我々の自由意志[2]を否定する人は、以上のように言うだろう。しかし我々は、それらの言葉を次のように理解すべきであると言うことによって答えたい。すなわち、無学と無教養の内にある人が、自分自身の諸々の悪弊に気づくなら――教示する人の勧告によってであれ、みずから別の仕方によってであれ――、自分を教養と徳へと手引することができると考えられる人に身を委ねるだろう。また、彼が身を委ねるなら、養育する人は、無教養を除去し、教養を入れると約束する。しかし養育する人は、治療を受けるためにみずからを差し出す人には、教育を受け無教養から脱するために何も(為すべきこと)がないかのように約束するのではない。彼は、望む人を改善してやろうと約束するだけである。同様に神的なみ言葉も、石の心と名づけた悪弊を、近づく人々から取り除くと約束する――ただしそれは、彼らが望まない場合ではなく、病んでいる人たちの医者に自分たち自身を委ねる場合である。同様に諸々の福音書の中でも、病んでいる人たちが救い主の許に向かい、治療を得ることを求め、癒されるのが見出される。たとえば、目の見えない人たちが視力を回復することは、癒されることを信頼しつつ求める限りで、苦しんでいる人たちの業であるが、視力の回復という限りで、我々の救い主の業である[3]。同じように神のみ言葉は、人が諸々の神的な掟の内に歩み、諸々の神的な定めを守るようになるよう、近づく人たちに悪弊という固い石の心を取り除き、知識を入れる約束する。



[1] Ez.11,19-20.

[2] to. evfVh`mi/n. 直訳すれば、「我々に依存すること」となる。

[3] Cf.Mt.11,5.