15 それらの言葉に続いて、福音からの言葉もある。そこで救い主は、部外者たちに数々の喩えで語るのは次のような理由であったと述べている:「それは、彼らが見ても見ず、聞いても理解しないようにするためである。こうして彼らは回心せず、赦されることもない[1]」と。反対派の人は言うだろう:回心する人たちは諸々のより明瞭な事柄をくまなく聞く人たちであり、こうして彼らは回心することによって、諸々の罪の赦しに相応しくなる。そうであれば、諸々のより明瞭な言葉(教え)を聞くことは、彼らに掛かっているのではなく、教える人に掛かっている――それで、教える人は彼らにより明瞭に告げず、彼らは決して見ず、理解しない。救われることは彼らに掛かっていない――もしもそうであれば、我々は、救いと滅びに関して自由意志を持っていないことになる[2]。「彼らは回心せず、赦されることもない」という言葉が付け加えられていなければ、それらの事柄に対する弁明は説得力のあるものとなっただろう。つまり、救い主は、(差し当たり)美しく善良になり得ない人たちが諸々の神秘の何がしかを理解することを望まなかっただけであり、それゆえに彼は、彼らに対し諸々の喩えで語ったのである。ところが、「彼らは回心せず、赦されることもない」という言葉が付け加えられ、その弁明はいっそう困難になっている。

 そこで先ず、その論題を異端者たちに差し向けるべきである。彼らは、旧約からそれらに類する諸々の言葉――そこには、彼ら自身が大胆不敵に言っているように、創造主の野蛮さや、より邪悪な人たちを罰する報復的な意向、あるいは、彼らが名指す同様の任意の事柄が現れている――を狩り集めている。彼らの目的はひとえに、創造した方には善良さがないと主張することである。ところが彼らは、(旧約と)同じくらい慎重に新約を読まず、非難に値すると彼らが考える旧約の諸々の言葉と同様の言葉を見過ごしている。実に福音でも、救い主は――彼らが前出の諸々の言葉に関して主張しているように――人々が回心しないようにし、また、回心することによって諸々の罪の赦しに相応しくなることがないように、明瞭に発言しないと明示されている。このことは、それ自体で、旧約にある数々の非難された言葉に劣らず重大である。もしも彼らが福音に関して弁明を探究するなら、彼らに対して言わなければならない:もしも彼らが(新約に対し)批判的に対処しないなら、同等の問題に対して彼らは不等に立ち向かっている。彼らは、新約に対しては躓かず、むしろ弁明を探求している。しかし旧約に対しては、諸々の同様の事柄に関して、新約にある数々の非難された言葉と同様に弁明すべきであるにもかかわらず、非難していると。我々はそれらの事柄から、(新約と旧約の)数々の類似性のゆえにすべての記事は唯一の神に関するものであると考えるように彼らに教えたい。では、我々は目下の課題に対して、力を尽くして弁明を提出することしよう。



[1] Mt.13,10-15; Mc.4,12.

[2] auvtexou,sioi:「自由意志を持つ」という意味で訳している。