16 我々は、ファラオに関して検討したとき、次のように主張した:時として、より迅速に癒されることは、癒される人たちにとって善いことにならない――もしも彼らが、みずからのせいで諸々の困難な事柄に陥ったにもかかわらず、彼らが陥ったそれらの困難から安易に解放されるならば。なぜなら彼らは、害悪を容易に癒されるものとして軽視し、その害悪に陥ることに用心せず、再びその害悪の内にいることになるからである。それゆえ、そのような類の事柄に臨む永遠の神、諸々の隠された事柄の認識者、「すべての事柄をそれらの発生前にご存知の方[1]」は、ご自分の優しさに従って、彼らのためにより迅速な援助を延期し、援助を絶つことで彼らを援助する。これの方が彼らに有益だからである。そういうわけで、いま話題になっている外にいる人たちは、目下の(聖文書の)箇所によると――たとえ彼らが、言われた諸々の事柄をより判然と聞いたとしても――その改心において堅固にならないだろうと救い主によって見抜かれたため、諸々のより深遠な事柄をいっそう明瞭に聞かないように主によって取り計らわれたのだろう。それは彼らが、より迅速に改心して癒され、罪の許しを得、邪悪さに起因する諸々の傷を軽微で容易に癒されるものとして軽視し、それらの傷に再びいっそう迅速に陥ることのないようにするためである。おそらく彼らは、徳に背き徳に反して犯した以前の諸々の罪に関わる諸々の裁きに服したとしても、より堅固な改心に招かれるのに十分な時を満たしていないのかもしれない。その十分な時というのは、神的な監督から離れた彼らが、かつて蒔いた自分自身の諸々の悪を大いに堪能し、その後により堅固な改心に招かれる時である。そのようにすれば、彼らは、以前に諸々の美しい事柄の品位を侮辱して、諸々のより悪い事柄に身を委ねることで陥った諸々の事柄により迅速に陥ることはないだろう。確かに、外にいると言われる人たちは、明らかに内にいる人たちに比べ、内にいる人たちから完全にかけ離れているというわけではないが――内にいる人たちが明瞭に聞くのに対し――不明瞭に聞く。なぜなら彼らは聞くにしても、彼らには諸々の喩えの内に語られたからである[2]。他方、外にいる人たちとは別の人たち、すなわちティルスの人たちと言われる人たちは[3]、救い主が彼らの(町の)諸々の境に近づいたなら、「とうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていただろう[4]」と予知されていたにもかかわらず、意外にも彼らは、外にいる人たちに関する諸々の事柄[5]さえ聞かない。彼らは、外にいる人たちの品位からはるかにかけ離れているからである。(しかし)それは彼らが、他の機会に、み言葉を受け入れなかった人たち――(救い主は)これらの人たちに掛けて、ティロスの人たちに言及した――(の段階)を超えたいっそう我慢できる状態に至った後に、いっそう時宜にかなった仕方で聞き、いっそう堅固に悔い改めるようになるためである。

 しかしあなたは、むしろ我々が、探求の試みに加えて、神と彼のキリストとに関する信心を守るために力を尽くして奮闘しているのではないかお考えください――不死の魂を摂理する神の多様な摂理に関するそのような重大な諸問題において、我々が徹底的に弁明しようと試みるとき。ある人は、(救い主によって)叱られている人たちに関して[6]、ティルスの人たちなら諸々の驚くべき奇跡が自分たちの許で起こり、それらの神的な言葉が言われたなら悔い改めたかもしれないのに、彼らがそれらの奇跡を見、それらの言葉を聞いたにもかかわらず利益を得なかったことを問題にするだろう。またその人は、次のように主張して尋ねるだろう。救い主は一体なぜ、彼らの害悪について彼らに説き、彼らにいっそう重い罪を帰そうとするのかと[7]。そう尋ねる人がいるなら、その人に対し、次のように言わなければならない。すなわち、摂理を非難するすべての人たち――彼らは、他の人々には観ることが許された諸々の事柄を(自分たちが)見ることを許さなかった摂理、他の人たちが聞いて利益を得た諸々の事柄を(自分たちが)聞けるように取り計らわなかった摂理を信じない――の諸々の目論見を把握しておられる方は、(摂理を非難する)彼らの言い分が理にかなったものでないことを彼に納得させようとして、ご自分の采配を非難する人たちが求めた数々の事柄を与えるのだと。それは彼らが、(それらの事柄を)受け取った後に、そのようにして利益を得ることに自分たち自身を委ねなかった点で自分たちが不敬虔の極みにあったことを納得させられ、そのような思い上がりを止め、そのこと自体によって免責され、次のことを学ぶようになるためである。すなわち、時に神は、ある人たちに恩義を施すに当たり、彼らがそれらの事柄を見聞きすることを許さず、中断したり遅らせたりする――見聞きされるそれらの事柄において、それほど重大なそれらの諸々の事柄が起こった後も信じなかった人たちのいっそう重くいっそうひどい罪が問われることになる[8]



[1] Dan.13,42(Sus.42).

[2] Cf.Mc.4,11.

[3] Cf.Mt.11,21-22.

[4] Cf.Mt.11,21.

[5] 「外にいる人たちに関する諸々の事柄」とは、言い換えれば、「外にいる人たちが聞いた諸々の(たとえ)話」のことであろう。

[6] Cf.Mt.11,21-24.

[7] オリゲネスによれば、み言葉を聞いたにもかかわらず改心に至らなかった人の罪の方が、み言葉を知らないために改心に至らなかった人の罪の方より重い。

[8] 堅固な改心に至るには、信仰(受け入れ)と、堅固な改心に至るための時機(罪の自覚)が必要である