17 「してみると、(それは)望む人にもよらず、走る人にもよらず、憐れんでくださる神による[1]」という言葉についても、我々は考えてみよう。攻撃する人たちは、次のように言う。「もしも(それが)望む人にもよらず、走る人にもよらず、憐れんでくださる神によるとすれば、救われることは我々の自由意志[2]によらず、そのような我々を構成した方から生じた構成による、あるいは、憐れむ方が望むときの意思による[3]」と。彼らに次のことを尋ねなければならない。諸々の美しい事柄を望むことは、美しいことか、それとも醜いことか。目標への到達を願って走ることは、諸々の美しい事柄を目ざして努力している限りでは、賞賛に値することか、それとも非難に値することか。もしも彼らが、非難に値すると言うなら、彼らは明証性に反して答えることになろう。なぜなら、望みもし走りもする聖なる人たちは、明らかにその点で非難に値することを行なっていないからである。あるいは、もしも彼らが、諸々の美しい事柄を望むことや、諸々の美しい事柄を目ざして走ることが美しいことであると言うなら、我々は尋ねよう。滅び行く本性がどうして諸々の優れた事柄を望むのかと。それは、たとえば邪悪な木が諸々の善き実を結ぶようなものである――諸々の優れた事柄を望むことが美しいことであれば。第三に彼らは言うだろう。諸々の美しい事柄を望むことと、諸々の美しい事柄を目ざして走ることは、諸々の中間的な事柄[4]に属しており、優美なことでもなければ醜いことでもないと。それに対して言わなければならない。もしも諸々の美しい事柄を望むことと、諸々の美しい事柄を目ざして走ることが中間的なことであれば、その反対のこと、すなわち、諸々の悪い事柄を望み、諸々の悪い事柄を目ざして走ることも中間的なことである。しかるに、諸々の悪い事柄を望み、諸々の悪い事柄を目ざして走ることは中間的なことではない。したがって、諸々の美しい事柄を望み、諸々の美しい事柄を目ざして走ることは中間的なことではない[5]



[1] Rm.9,16. 訳者(朱門)は、原文を直訳している。

[2] to. evfVh`mi/n. 直訳すれば、「我々に依存すること」となる。

[3] 前者はグノーシス主義者の見解を暗示し、後者はたとえばストア派の決定論を暗示していると言えよう。

[4] ta. me,sa ストア派の用語の一つで、「善悪無記」(avdia,fora)に同じ。

[5] 背理法が使われていることは明らかである。