18 私が思うに、「してみると、(それは)望む人にもよらず、走る人にもよらず、憐れんでくださる神による[1]」という言葉に対し、我々は、以下のような弁明を与えることができる。ソロモンは、『詩篇』の書の中で――実際、諸々の都詣の唱歌は彼のもので、我々はその唱歌から諸々の言葉を引用する――次のように言っている。「主が家を建てるのでなければ、家作りたちが家を建てるのは空しい。主が都市を守るのでなければ、夜回りが徹夜をするのは空しい[2]」。彼は、家を建てることを我々に思いとどまらせているのではなく、我々の心の中にある都市を守るために徹夜するなと教えているのでもない。むしろ彼は、神なしに建てられた諸々の物や、この方からの保護を得ない諸々の物は、建てられても無駄であり、絶え間なく守られても無駄であることを明らかにしている。なぜなら、神が建築の主であり、万物を支配する方が都市の警護の支配者として描かれているのは理にかなっていよう。したがって、もしも我々が、この建物は家作りの業ではなく神の業であり、この都市が敵たちから何の被害も受けなかったは守衛の功績ではなく、万物に臨む神の功績であると言っても、我々は躓くことはないだろう――何がしかが人間によって行なわれることが認められるとともに、人間らしい有徳の業[3]は、(すべてに)完成をもたらす神に感謝の念をもって帰されるからである。同様に、目的を達するには人間的な欲求(だけ)では十分でなく、キリスト・イエスにおいて上からの神のお呼びという賞を獲得するには競技者たちのように走ること(だけ)では十分でないのだから[4]――実に神が力添えしてくださることによって、それらのことは成し遂げられる――、「してみると、(それは)望む人にもよらず、走る人にもよらず、憐れんでくださる神による[5]」という言葉は見事な言い方である。次のことが農業に仮託して書かれている。こう言われている:「私が植え、アポロが水を注ぎましたが、神が成長させました。したがって植える者も水を注ぐ者もたいした者ではなく、成長させてくださる神が大切なのです[6]」と。我々が、諸々の実が熟したことを農夫の業であるとか、水を注いだ人の業であると言うなら敬虔なことではなかろう。それは神の業である。同様に我々の完成も、我々が何も為さなければ起こらないが、我々によって達成されるわけでは断じてなく、神がその(完成の)大部分を成し遂げる。いま述べられたことがそのとおりのこととして判然と信じられるために、我々は操舵術から例を取ってみよう。航海する人たちの救いに協力する諸々の風の流れや、諸々の空気の穏やかさ、諸々の星の輝きに比べ、操舵の技術は、港への寄港においてどれほどの重要さを持っているのかと言われよう。舵取りする人たちはしばしば用心深くなり、船を救った(のは我々だ)と敢えて言うことさえない。むしろ彼らは、万事を神に帰す――それは、彼らが何も働かなかったかれではなく、摂理に由来することの方が、技術に由来することよりも圧倒的に大きいからである。我々の救いにおいても、神に由来することの方が、我々の自由意志に由来することよりも圧倒的に大きい。そのようなわけで、「してみると、(それは)望む人にもよらず、走る人にもよらず、憐れんでくださる神による[7]」という言葉が言われたと私は思っている。「してみると、(それは)望む人にもよらず、走る人にもよらず、憐れんでくださる神による[8]」という言葉を、彼らが理解するような仕方で受け取らなければならないとすれば、諸々の掟は余計なものであり、パウロ自身がある人たちを堕落したとして非難し、ある人たちを実直であるとして歓迎するのは無駄であり、諸教会のために規則を作るのも無駄である。我々が諸々のより優れたことがらを望むことに専念するのは浅はかであり、走ることに専念するのも浅はかである。パウロが諸々のあれこれの事柄を勧告し、あれこれの人々を譴責し、あれこれの人々を歓迎するのは空しいことではない。また我々が、諸々のより優れた事柄を望むことや、諸々の秀でたことがらに向かって進むことに専念するのも空しいことではない。結局、彼らは、この箇所に関する諸々の事柄を上手に理解しなかったのである。



[1] Rm.9,16. 訳者(朱門)は、原文を直訳している。

[2] Ps.126,1.

[3] 訳者(朱門)は、avndraga,qhma を「人間らしい有徳の業」と訳した。

[4] Cf.Ph.3,14.

[5] Rm.9,16.

[6] 1Co.3,6.

[7] Rm.9,16.

[8] Rm.9,16.