19 それらに続いて、「望むことと働くことは、神に由来する[1]」という言葉がある。ある人たちは言う:「望むことが神に由来し、働くことが神に由来するなら、我々が悪く望んでも悪く働いても、それらは神から我々に由来した。もしもそうなら、我々は自由意志を持たない。また、諸々のより優れた事柄を望み、諸々の秀でた事柄を働いても、望むことと働くことは神に由来しているのであるから、我々が諸々の秀でた事柄を行なったのではなく、我々は(そう行なうように)見えただけである。神がそれらのことを与えた。したがって、その点でも、我々は自由意志を持たない」と。それに対して、次のことが言われなければならない:使徒の言葉は、諸々の悪い事柄を望むことが神に由来するとか、諸々の善い事柄を望むことが神に由来するとかを言っているのではなく、同様に、諸々の優れた事柄や諸々のより善い事柄を働くことが神に由来すると言っているのではない。それは、一般的に望むこと、一般的に働くことを言っている[2]。すなわち、我々が神から、(我々が)諸々の生き物であることと、(我々が)人間たちであることを受け取っているのと同じく、いま我々が述べたように、一般的に望むことと、一般的に動くことを神から受け取っている。我々は生き物であることによって動くことができ、また、たとえば個々の肢体、両手、両足を動かすことができるが、特定の種的なこと――殴るためや破壊するため、あるいは他人の諸々の持ち物を奪うために動くこと――を神から受け取ると言うのは理にかなったことではないだろう。むしろ我々は、類的なこと、動くことを神から受け取ったのであり、我々が、諸々のより悪い事柄のためや諸々のより善い事柄のために動くことを用いる。同様に、動くことも、我々が生き物である限りで、神から受け取り、望むことを創造主から得たのであるが、我々が、諸々の最も立派な事柄のために、あるいはそれらの反対の諸々の事柄のために望むことを用いる。働くことも同様である。



[1] Ph.2,13.

[2] もちろん意訳は、「それは、望むこと一般、働くこと一般を言っている」となる。