しかし理性的動物は、表象にかかわる本性に加えて、諸表象を選り分け、或る諸表象を退け、或る諸表象を受け入れる理性も持つ。それによってその動物が、それらの諸表象に従って振る舞うためである。それゆえ、美醜を識別するための諸々の手掛かりは理性の本性の内にあるのだから――我々は、それらの手掛かりに従って美醜を識別し、美を選び取り、醜を退ける――、美の実践に身を委ねれば、我々に賞賛に値するものとなり、反対のものに従えば非難に値するものとなる。しかしながら、万事に秩序づけられた本性の程度の違いが、ある度合いにおいて、優劣の違いという形で、動物たちの内に存在するのを忘れるべきではない[1]。具体例を挙げれば、狩猟犬たちの内にある業や軍馬たちの内にある業は、理性的な業に近い。外部にある諸々の事柄の或る何かが降り掛かり、我々にあれこれの表象を生じさせるなら、それは、万人が認めるように、我々(の意志)に掛かる諸々の事柄には属さない。しかし、或る仕方で生じたものを使用するか、別の仕方で生じたものを使用するかを選り分けることは、我々の内にある理性の業に他ならない。理性は、諸々の手掛かりに基づいて我々に働きかけ、美しい事柄や適切な事柄へと招く諸々の衝動へと向かわせるか、あるいは反対の事柄へと我々を逸らせる。



[1] 直訳は次の通り:「万事に秩序づけられた本性のより大いなるもの(程度の違い)が、ある度合いにおいて動物たちの内に存在する、より優れて、あるいは、より劣って」。